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5 シベリア抑留体験
体験記

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 ○松田※※(大正九年生)

   調査年月日 一九九〇年二月九日
   調査者 泉川良彦

 昭和十六年(一九四一)三月一日、二十一歳の時現役入隊し満州に行った。私達の前年までは、内地で四か月間教育を受けてから満州に入隊していたが、私達の年からは、直接満州での入隊だった。大阪の二三部隊に集合して翌日すぐ満州に行った。
 満州では四個中隊のうちの一個中隊である杉山部隊にいた。一個中隊は四〇〇人くらいで、私が行った頃は半数以上が沖縄の人だった。部隊では波平の知花※※と一緒だった。
 満州といってすぐに思い出すのは、二〇三高地で有名な乃木将軍の『水師営の会見』(文部省唱歌。水師営とは、日露戦争中の明治三十八年一月に乃木大将とステッセル将軍の会見が行われた中国遼東半島南部の地名である)だ。若い人は知らないだろうが、「昨日の敵は今日の友…」という歌である。満州にいた頃、その歌の中に出てくる、乃木将軍が馬をつないだというなつめの木が、実際にその場所にあったのを見た。
 満州では、五年間を部隊で過ごしたが、戦闘の様子は田舎ほどひどいものだった。討伐というのが毎年二、三回あったのだが、二〇〇人単位の人数の八路軍(戦争当時、華北にあった中共軍の総称)を相手に、いつも勝ち戦をやっていた。八路軍は、鉄橋を爆破したり、次々と田舎の集落を襲っていた。私たちの日本軍部隊は、鉄道警備の任務で田舎へ行き、現地住民に「八路軍が入った場合はすぐに日本軍に連絡しなさい」と言っていた。夜でも昼でも連絡が入ると出動した。しかし、住民は日本軍に連絡していることが八路軍に知れると、八路軍に酷い目に遭わされていた。また八路軍が来ても、住民から日本軍に連絡が来なかった地域は、八路軍に味方をしているということで、上官からその地域を全部焼き払いなさいという命令を受けた。それで約一〇〇軒くらいあった集落に火をつけた。兵士達は若かったので、命令に従うより他になかった。満州は寒いところだから、住民はお金よりふとんや着物を大事にしていた。だから、自宅に火をつけられた母親達は、小さな子どもをかごに入れて川辺に避難させ、家から死に物狂いでふとんを引っ張り出していた。その時、子供の入ったかごが川にひっくりかえって流されていったが、母親は気づいていなかった。それを見ても日本兵は助けようともしなかった。満州の田舎の方では、八路軍からも苛められるし、日本軍からも苛められていて、もう「都会に引っ越さないかね(比較的穏やかな都会へ避難すればいいのに)」と私は思った。
 私は、守備軍として奉天、大連、鄭家屯(テイカトン)等にいた。大連、奉天などの都会には、日本人町があって田舎に比べて穏やかであった。
 昭和二十年の八月の終戦時は、朝鮮と満州との国境付近のリューセーという所にいた。そこで陣地構築をしていたのだが、そこで捕虜になった。ソ連軍から命令が来て、兵器類は全部兵舎の前に並べ、兵員は整列しておきなさいということだった。それから部隊は解散した。朝鮮人は帰ってもいいという命令をソ連軍が出した。もう、部隊も解散し、糧秣倉庫から何でも自由にとれるという状況だったので、朝鮮人は馬車に糧秣を積んで、多数の人たちが帰って行った。
 満州に五年いた後、捕虜となりシベリアに三年間いた。シベリアでは、ムーリン地区捕虜収容所に入れられた。食料が少なくて栄養失調で亡くなる人が多かった。私達は若い上に、ある程度軍隊で鍛えられているから大丈夫だったが、満州で現地召集された人達は年長者が多く、その上お手伝いさんを雇うほど贅沢(ぜいたく)な暮らしをしていた人が多く、軍隊生活の経験もなかったので、毎日のように亡くなっていく人がいた。
 シベリアでの主な作業は森林伐採だった。現地では工場も機関車も全て、薪を燃料として使っていた。二人用の大きなノコギリで伐採した木を六尺ずつに切る作業をやっていたが、厳しいノルマが課せられていた。雪が深くて、思うように作業は進まなかった。木を切り倒す時、木が倒れてきても逃げることができず、木の下で圧し潰された人もいた。作業中に足を骨折した人がいたが、それでも作業ノルマを達成しなければならなかった。最初は泣き泣き仕事をしていたが、人間というのはすごいもので、作業しながら曲がったまま骨が固まり、その人は生きて復員してきた。また、メガネをかけている人は、レンズが割れても修理もできないのでそのままかけていた。それで見えるかね、と思うほどだった。
 シベリアでは、体感温度がマイナス六〇度くらいまで下がり、冬は川も凍りついていた。幅一里程の凍った川の上に、枕木を並べてレールを引いて、その上を機関車が走り、物資を輸送した。伐採作業だけでなく、煉瓦工場での煉瓦づくりもした。
 シベリアに連行される時には「(日本へ)帰す」と騙されていたので、日本の土を踏むまでは、帰れるということを本気にはしていなかった。それでいよいよ日本への引揚げが本決まりになったときにも半信半疑であった。
 引揚船は、ソ連のナホトカ港から出た。ナホトカまで日本船が迎えに来たのだが、船は四〇〇人単位で出港することになっていたので、四〇〇人の乗船者が集まるまで、一か月程ナホトカに滞在していた。引揚船に乗って、食器類が新聞紙に包まれているのを見て、日本は敗戦して大変だといっても、シベリアほどではないなと思った。というのは、シベリアには紙も無くて、作業の道中で落ちている紙を拾い、洗って乾かしてからタバコの巻紙として使っていたからである。
 京都の舞鶴港に着いた時「赤いりんごにくちびるよせて・・・」という『りんごの唄』が流れていたことが忘れられない。京都へ来てからは、食事はたっぷりあったし、不自由ということは何もなかった。昭和二十三年六月、三十歳の時沖縄に帰って来た。

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