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5 シベリア抑留体験
シベリア抑留者座談会

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 日常化した死

司会 作業中や収容所内で亡くなった人はどうなったんですか。
新垣 私がいたところでは、もう遺体を埋めるのに間に合わないさ。雪はもう二、三メートルも積もるから、雪かきをして土を掘るということはどうしてもできない。
玉城 最近、テレビで放映されていたシベリア紀行で、捕虜の個人墓がずらっと並んで出ていましたが、あんな風にきちんと埋葬したかなーと、それ見せるだけのもんじゃないかと思いましたね。
 みんな遺体をどんどん山積みにしていた状態だのに、墓なんてないよ。いくつかはあったかもしれないが、個人墓が並んでいるなんて、そんなことないって。
安里 あれはたくさんの中のほんの一部。
玉城 朝起きるでしょ、死んでいるわけさね。これを裸にして、その着物を消毒して生きているものが着る。裸の遺体をソリに積んで墓穴に入れる。地面も凍っているから、薪を燃やして溶かしても少ししか掘れないものだから、穴を覆うこともできない。夏になるとこれがとけてきて、これまた大変なんだ。
新垣 墓掘りに行って、そこでそのまま凍傷になって死ぬやつもおるんだから。朝起きてそばの人が死んでいてもわからない。
司会 やはり凍傷で亡くなるのですか。
安里 栄養失調が多い。みなさん、収容所に医務室というのはありましたか。
新垣 ありましたが、それができたのは一年程経ってからだな。
司会 薬品なども揃っていたんですか。
新垣 いや、全然ありません。
玉城 ただ、下痢した時は日本人とは逆に、飯を食わなかったら余計大変だと、いつもよりたくさんくれました。食わせたらいくらか腹に残るという考え。
安里 これは初耳だな。
玉城 うん、おもしろかったよ。凍傷にかかったら、すぐ重営倉(旧軍隊で懲罰令によって規則に反した兵を閉じ込める建物)さ。凍傷かかるあんたが悪いんだと。
司会 生存率はどのくらいでしたか。
新垣 金山から炭坑に移るまでの三か月間に、一〇〇〇人から六〇〇人になっていた。一日に一二人亡くなるのを見ました。
玉城 特に最初の頃はひどかった。
新垣 炭坑にきてから、山での仕事ではなく死体整理に五〇人くらい行かされましてね。それも穴にただ並べてね、名前も誰か全然わかりませんよ。
 毛布で遺体を包んで運んで行って、現場でその毛布を全部はずして持って帰る。そして自分がかぶる。そんな風だったんだよ。もう寒さはどうしようもないからね。
安里 死んだ人が少ない間は穴を掘っていたけど、多くなったら掘りきれん。だから山のくぼみに死体を薪のように積んで、上に雪をかぶせてくるわけさ。それをまた移動させることもあるし。
司会 例えば、同じ部屋で親しくしていた人が亡くなったりした時はどうでしたか。
玉城 いや、普通と変わらんのに(人の死が日常化していて特別なことではない)。起きてみたら死んでいた、ただそれだけのことさ。
新垣 私達は、生きて帰れるなんてことは全然頭になかった。炭坑でも、発破を入れるときにね、わざと発破のそばにいると監視のロシア人が手を引張って連れて行くさ、離れなさいと言って。こんな場合は全部中止して引留められたね。
司会 もう死ぬつもりで。
玉城 やぶれかぶれ、どうでもいいと思うわけさ。
新垣 捕虜は生きていても仕方ない、死んだほうがまだいいという感覚だが、ロシア人は労働力でもある我々を死なせては大変だと、腕を引張って止めていた。
 しかし、彼らのやり方をみてるとね、生きて帰ることができるとは全然思いもしませんでした。

 尻をつまんで等級判定

新垣 炭坑の作業には、一級二級は坑内、三級は地上という風に等級分けされていました。
司会 そのような等級はどのように判定されたんですか。
新垣 毎日医師が来て調べてました。
玉城 肥えた人が一級。
安里 裸にしてね、お尻の皮をつまんで引っ張るわけよ。ひどい人は骨盤が出ているから引張るほどのことはないのだが、お尻の皮を引張って弾力性があったら、肉体労働ができると判断される。
玉城 そのときに聴診器を使わないんだよ。女の医者だったが、耳を胸に直接くっつけるんだよ、この方が聴診器よりもいいといって。
安里 みなさんは、向こうで一緒にいた人の名前を覚えていますか。
玉城 わからん。
安里 それには理由があるわけさ。この毎日の等級判定でしょっちゅう移動する。ここからあっちへ、あっちからこっちへという風にぐるぐる回すものだから、一人も名前を覚えていない。
玉城 そういえば、恩納村と北海道の人を二人だけ覚えている。
司会 疲れて帰って寝るだけなので、特に親しくもならないわけですね。
安里 軍属時代の同僚とは、昔話や思い出話などしょっちゅうやっていましたが、収容所ではそういうこともなかったので印象に残っている人はいませんね。

 収容所でも続いた日本軍の階級

安里 旧軍隊の部隊編成のまま収容されたところではね、初年兵は古年兵の靴磨きまでやらされていたよ。
司会 もう日本の軍隊のそのまんまで。
安里 もう部隊ごとそっくり収容されたのはそうなっていたね。食事の分配で少しでも中身の入っているものは上の者が食べてね、何も入ってない汁だけのものを下の者が食べるというような、そんな状態だったね。
司会 年齢的に上の人達というのはいくつくらいの方達までいたんですか。
玉城 関東軍の召集だから、当時で三十代後半、三十五、六歳くらいでしょう。
司会 その年齢の人たちは大変だったでしょうね。若い人たちと一緒の扱いでは。
安里 この「鎮魂シベリア抑留死亡者四万人名簿」(『月刊Asahi』一九九一年七月号)を見ると、死亡者の死亡年月日と年齢があるけど、ほとんどの兵隊が一九四五年の暮れから四六年の初めに亡くなっている。それと亡くなっているのは、歳が若いか、歳がいっているかのどちらかだ。歳がいってる人はね、現役の兵隊じゃない。もし現役兵で歳がいっていたら、下士官か何かになっていないといけない。年齢が高くて兵というのはほとんど満州での召集兵ですよ。
司会 これは沖縄で防衛隊が召集されたみたいに、あそこでも人が足りなくて。
玉城 そう。波平の比嘉※※さんも、その関特演で召集されてそのまま残ったんじゃないかな。
安里 兵隊で飯食ってきた人達は何をさせても要領がいいわけ。しかしね、開拓団や軍属で満州にいて、補充兵として軍隊に入っているのは要領が悪いから、余計まいるわけよ。
新垣 また年寄りはそんなに使わなくても、若いのバンバン使うでしょ。しかも軍隊のように新しく入ってくる兵がいるわけでもなく、いつまでも若い兵が使われる。そういう関係でもう大変でしたよ。
玉城 僕らが一番年下だったんじゃないかな。
司会 そうなりますね、昭和二十年入隊の繰上げ召集の人達ですね。
玉城 兵隊の一番最後だからさ。徴兵検査の最後だから一番若い方でしたよ。

 凍傷知らずのウチナーンチュ

安里 しかし、今から考えてみるとよく凍傷にならなかったな。
新垣 北海道、東北の人は凍傷にかかるけども、ウチナーンチュ(沖縄の人)はかからなかった。
安里 めずらしいですよね。
新垣 これはあれじゃないかな。昔の沖縄の人は油物よくとっているでしょ。それで、皮膚が締まっていて穴が開かない。本土の人たちはいつも味の薄いものを食べているから毛穴が多いでしょう。耳から鼻から毛をたくさんはやしていましたよ。
司会 本土の人の方が寒さに弱かったんですか。
新垣 うちには東北の人がだいぶおった、半分ぐらいは東北だった。
玉城 死んだのも多かったんじゃないかな。
安里 なめてかかってそうなってるんじゃないかな。
玉城 沖縄の人間は粗食に耐えているからね。帰ってきておやじに粗末に育ててくれてありがとう、と言ったよ。
安里 珍しいね、沖縄の人はよく凍傷にかからなかったな。当初はすっかり凍傷になるんじゃないかと思ったけどならなかったもんね。
司会 沖縄の人はこんな温かい所から行っているから大変だっただろうと思っていたんですけど。
安里 これだけはめずらしいね。
玉城 粗末に育つと強いんだ人間は。あんまり大事にするとね。
新垣 これだけは自慢になるよ。私達軍隊にいるときいつも自慢しおったさ。

 マイナス四〇度で作業中止

司会 怪我もあったんじゃないですか。
玉城 伐採をやった人たちは、いろいろあって大変だよ。
司会 伐採するときは、倒れてきても逃げられない時もあったそうですね。
玉城 風がある場合、まわりながら倒れる木があるからね。
新垣 雪も相当積もるよ。私がおったチャイナゴールスカヤの炭鉱地区ではマイナス四〇度になるとサイレンが鳴りおった。地上作業は全部やめなさいという。
司会 マイナス四〇度で。
玉城 あれはたしか、国際取り決めがあるはずですよ。でも私達はそうじゃなかったよ。どんなに気温が下がっても関係なしで、ワッター、チャー、ンジャサリー(私たちはずっと作業に出されていた)、ハッサヨー、いつも。
安里 地区によって違うみたいね。僕らはそれ、経験していませんね。
司会 マイナス四〇度。その時はもう作業中止ですか。
新垣 いろんな記録を見ると、この年度は何十年来の(寒い)時期だったそうですよ。私達は二か年おったけれども、四回か五回あったかな。

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