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5 シベリア抑留体験
シベリア抑留者座談会

 舞鶴にて

新垣 あんたがた、舞鶴に着いてから真っ裸になって写真撮られなかったですか。
玉城 撮ったはず。なにも着けなかったのに。
安里 僕らは両手の指に黒インクを付けられて、その指を白紙に押しつけられて両手の指紋をとられたよ。とにかく僕らは犯罪人扱いされたよ。
司会 これは日本側がですか。
安里 そうそう復員手続きとして。
新垣 私達は日本側の調査人ではなくてアメリカ軍の二世が私達を全員腰掛けさせて、全部調べおった。行くときはどこから行ったか、どういうことがあったか、向こうの状況、仕事の内容全部そういうふうに。
司会 引揚げた時に、取調べみたいなものがあったんですか。
新垣 いや、ナホトカから舞鶴に上陸してからだよ。
司会 ※※さんの調書ですがね、今どこにあると思いますか。どんな内容の取り調べを受けたかという。
新垣 どこにあるのかな…。
司会 アメリカの方針だったのでしょうか。
安里 GHQでしょ。
司会 GHQの資料の中にあるかもしれませんね。
新垣 あるかもしれませんね。
安里 僕らの時からは少し落ち着いてきてるから、もうGHQは日本の役人に任せていたよ。
新垣 一人一時間だね、そういう予定でずーっと。
玉城 一回だけでなく何回もあったね。
新垣 あんたがた舞鶴には長らくおったね。
玉城 僕はそんなにいないなー。すぐでしたね。
安里 僕もそんなにいないな。一週間前後ぐらい。
新垣 私は一か月余りいたからさ。食事はないでしょ。だから使役に出ていた。ようやく日本に来て、日本の飯を食べることはできたけれども、それでも足りない。小笠原、沖縄に引き上げる連中がそこにおったんですよ。
 そこの責任者(収容所の所長)のK氏は、戦争前は中尉として舞鶴に駐屯していたと言うんだ。だいぶヤミがさかんにおこなわれている時でしょ。この人も相当ピンハネして、そこにいる引揚者には腹一杯なかったんですよ。
 私は復員局へ行って、担当者に「一日引揚者にはどのくらいの食事を与えるようにしているか、それ基準があるでしょ」と言ったら「ありますよ」と言った。どのぐらいかと聞くと、「一日二〇〇〇カロリーから二三〇〇カロリーぐらい」だと言うんだ。じゃあ一応あんたが来て、ほんとうに実際にそのぐらいの食事支給されているか、一日分調べてくれんかと申し入れた。そしたら本当に調べに来て、一日三回朝、昼、晩と調べてみたら、規定の半分もないということだった。
 じゃあどうするか、所長をやめさせろ、所長の首切りなさいよと言ったら、とうとうクビにされてね。
安里 沖縄の人だけそこにおったんですか。
新垣 ええ、そうです。
安里 あー沖縄の人すぐ帰れんから。
新垣 佐世保に行く予定だったけれども、船は佐世保から出るんだけど、船はいつ出るかはっきりしないから、それまでここに居りなさいということで。
安里 僕らからは佐世保待ちでしたね。
司会 ではナホトカから船が出て、舞鶴に行ってそれから佐世保に。佐世保から沖縄へということになるんですね。
新垣 そうです。



玉城※※氏の引揚証明書(表)



同上(裏)

 佐世保にて

新垣 私が佐世保に来てから、手続きのために復員事務所に行ったら「新垣さん」と声をかける人がいたんです。「あのー、シベリア行きの汽車から途中で病院に運んでもらい、大変お世話になりました田中ですよ」と言うわけ。
 私は収容所へ向う汽車から、栄養失調で降ろされた佐賀出身の人を病院に運んだことがあったのですが、その人が先に復員していたのです。向こうは元気になっていて、もう肥えていて、私は全然わからんかったわけ。こっちは痩せているのによく気付いたなーあんたは、と思ったけどね。
 その人が「じゃー今日は手続き終わったら家に案内しますから、五時半に収容所に来ます」といってね。
司会 その人にとっては命の恩人みたいな思いなんでしょうね。
新垣 そう言っていた。「あの時運ばれなければね、私は死んでいたんですよ」と言ってたけれども。
司会 そうですか。
新垣 佐世保では、宮古、八重山出身者が先に来ており、全体合わせて四七人おったけれどもね。今日は何人が炊事の使役、というふうに交替で炊事を手伝う仕事をしていた。そこでもらってきたものをみんなで分けあって食べよったさ。
安里 佐世保には長らくいたのですか。
新垣 二〇日ぐらいおったかな。佐世保で一緒にいた人々で本土からの引揚者は、お金もたくさんもっている。衣類からなにからたくさん持っていた。
 南方からの引揚者は、食事もいい食事してきているから元気で肥えているし。シベリア帰りは痩せていて何も持っていないし、見てわかりおったさ。ほんとうによ。
司会 やせて。
新垣 しかしよく、そこまで生きながらえてきたな…。

 そして、沖縄、読谷山へ

安里 僕らは、米軍の貨物船で佐世保から出港し那覇港に入港しました。その時にクリ舟が、貨物船の傍を通りながら波間に浮かんでいる板切れを拾い上げているのを見て、沖縄では小さい板切れも貴重品になっているんだなーと思った。
新垣 中城湾に船は着いたが、一晩停泊し上陸させなかったんですよね。中城に着いてから、船へタバコやらアイスクリーム、いろんな物を売りに来るわけさ、ボートグヮーで、夜。あのアイスクリーム一缶食べてね。
司会 粉ですよね。
新垣 粉さー。水はないし大変でしたよ。一晩船に泊まったからね。
安里 船は東海岸通って来たんですね。久場崎に上陸した人は相当早い時期だったと聞いてますよ。僕は那覇上陸です。僕らが来たときには志喜屋知事も来られて歓迎の挨拶をしておられたよ。
 那覇から自動車に乗せられて、佐敷の新里ビラ(坂)を上がっていったところにあった民政府のコンセット屋に入れられた。そこに二晩泊まったよ。そして、刑事みたいな人が来ていろいろ調べられた。
新垣 読谷村は戦前、読谷山(ユンタンジャ)といっていましたので、「読谷山の人は全部、石川にいるのでトラックで連れて行くまで、しばらく待って下さい」と言われました。でも私達はトラックを待たずに、自分の村へ帰るといって読谷山に向かって歩いて帰りました。
 それで、北谷の坂を降りた辺りで後ろから来たトラックが「どこにですか」と聞くので「読谷山に」というと、「じゃあ乗って下さい。本部からのお達しですからどうぞ」と言われました。
 そのとき、儀間の区長をしていた※※さんも乗っていましたよ。瀬名波から當山さんでしたか、南方から引揚げてきた人が三人乗ってきていました。
玉城 船の中で一晩は泊まったんですか。
新垣 一晩泊まった。
玉城 私は泊まらんですぐに帰ってきたよ。波平の旧役場近くの知花※※が、なぜか車で迎えに来ていたんですよ。そして※※と一緒にこっちへ帰ったら、やっぱり昔の鍛冶屋が残ってましたよ。
司会 読谷山の様子は、すっかり変わっていましたか。
玉城 そうですね、道なんかも変わってましたからね。
新垣 この道(現在の県道十二号線)が拡張されたのは終戦後、アメリカーがやったんでしょ。だからそこを通って来ても全然わからんわけさ。村内の様子も変わり果てていたので、波平の鍛冶屋が残っているのを見て、ようやく場所が分かったくらいですよ。
 それから、今の大城(ウフグシク)にあった当時の役場に入って、村長に挨拶にいく姿を見かけた人が、私の家族に「帰ってきたぞー」と知らせに行ったそうです。私が帰って来た時期は、まだシベリアからの帰還者はほとんどいなかったんです。だからその知らせを受けた家族は当然遺骨で帰ってきたとばかり思って、ひどく悲しんでいたそうです。ところが私が歩いて家に来たものだから、みんなが驚いて、泣きながら「今の十分間に、一生分の悲しい思いと嬉しい思いを両方したよ!」と言っていました。
玉城 僕らみたいなのには飛行場ができているのもわからないよ、全然。
司会 昭和十八年にシマを出て…。
安里 十八年の四月。
新垣 私達が出発していく頃(昭和十七年三月)は、飛行場の話もなかったしね。
安里 飛行場を作ったのは十八年七月頃からでしたか。
司会 土地の接収が十八年七、八月ぐらいからですね。
玉城 私達が出て二、三か月後だな。

 帰国後の思想調査

新垣 私は先にも言いましたが、早く帰国することができたのです。というのは、ナホトカ港で数人でふんどしを二つ繋いで、のぼりをつくったわけです。それに石炭の粉を水で溶かして「天皇制打倒」と書いたわけ。今になって考えるとおかしいんだけれども。それでね、「あーこれはいいよ」とか「これはちょっと強い」とか、四、五人集まって作った。しまいには、「あーそれ書け!『天皇制打倒』って書け!」ということになって。
玉城 ふんどしに?
新垣 はい。
司会 赤く染めてですか。
新垣 いや、赤い字で書くのが本当だけど赤はないから、石炭の粉を水に溶かして書いたわけ。それを二人で持って行進したんです。それを見つけたソ連の監視兵が、「あんたがた二人収容所に帰れ」と戻されてね。
 その監視兵が通訳呼んで「ここに書かれた意味を説明しなさい」と。それで通訳が説明したわけよ。「ほんとに、間違いないか」と、通訳に確認しておった。通訳は「そのとおりだ」と。監視兵は私達二人を車に乗せて連れて行ったので、さーもう大変(日本に帰れずにまた収容所へ戻される)と思ったものです。しかし、帰国船に乗る行進の列の先頭に連れて行かれて「あんたがた、先に乗りなさい」と言われて早く帰ることができたんです。
司会 それは、どうしてですか。
新垣 早く日本へ帰って共産主義思想を広めなさい、ということですよ。
 しかしね、船に乗ってナホトカが見えなくなってからこののぼりを海に捨ててしまいましたよ。だからそういうことをしたもんだから、こっちに帰ってきてからも毎月駐在から回って来るし、これはまずいことしたなーと思ったけれども。
司会 駐在と言うのはMP(米軍憲兵)ではないんですか。
新垣 ううん、ここの読谷山駐在、こっち帰ってきてからだから。知花※※が「私のところには毎月駐在が来ているけど、あんたはなんともないか」と。いや、その件については何も言えなくてね。「あれアカになっている、あれ赤旗だよ」と言われて。大変なことになったなと。
司会 その二人のもう一人はどなたですか、その旗を持ったのは。
新垣 だからそれは本土の人、福岡の人。
安里 その当時何歳でしたか。
新垣 私は二十七歳だったかな、その時は。
安里 収容所内で共産主義教育を受けてね、僕らみたいに非常によく染まったのと、染まらなかったのとはね、年齢が非常に関係しているんだよ。もう三十、四十歳になってね、子供がおり、家庭のことも世の中のことも知り尽くしている人は「はーはーひー」といって受け入れているふりをしてもね、心からは賛成していない。僕らは帰ってきた時、かぞえで二十三、四歳だからね。何でも新鮮で、だから染まりやすいわけよ。
司会 抑留体験者はみんなずーっとこういう教育を…。
安里 みんな受けてる。
司会 それは日本を共産化しようという計画で…。
安里 そう。しかしこちらに帰ってきてからは、定期的に思想調査があって大変でした。
司会 思想調査ですか。
玉城 巡査は、本人には聞かないで周りに聞いてるんだな。
新垣 そうそう、周囲に。
玉城 本人に聞かないで全部周囲から。だから私達隣に妹がいるもんだから、また来ておったよーって。
新垣 僕のところに一か月に一回まわってきおった。
玉城 読谷山に帰ってからも二か年は続いたね。

 シベリア抑留生活を振り返って

司会 安里さん今までの話をだいたい総合してどんな感じをもたれましたか。
安里 今までいつも感じているんだけど。あんまり国のためだといってすかされて馬鹿働きするもんじゃない、何も補償もないのに。僕らは何も、好きこのんでシベリアに行ったんじゃないんだよ。お国のためにといって…。帰ってきたら犯罪人扱いされて、割の合わない話だよ。行きたくて行ったんじゃない。
玉城 犯罪者同様でしたよね。
司会 ※※さんどうですか。
新垣 そんなもんですよ。
玉城 自分の損か。
安里 損だね、得したの一つもないな。
新垣 あんたがた国から慰労品(書状・銀杯)もらいましたか。
司会 慰労品…。
新垣 大臣から、まだ来てないか。
玉城 もらってない。
新垣 あんた、あれで埋めることできるか。あんな銀杯で。

新垣※※氏に送られてきた1991年3月13日付の「慰労証書」
銀杯(大中小の3つで裏には内閣総理大臣と刻まれている)


司会 そうですよね。
新垣 「子供に何かやるみたいに」と言ったら、うちのおばーは笑いおった。
安里 僕なんか琉球政府におったが、履歴書書く場合、どこに何年勤めたとかがあるでしょう。給料の格付けするための資料になるんだ。何年勤めたか、シベリアのことは書けないわけさ。書いたら首にされる恐れがあるから。そうして格付けされるとね、自分の後輩よりもずっと給料が安いんですよ。
 ずっと復帰まで続いたよ、この差は。農林学校の入れ替わりの人達よりもずっと給料が安いんだ、僕は。自分の同期とも差があった。
新垣 しかしね、何といっても帰って来てからの一、二か年、駐在巡査が回ってきて、どこにいるか、仕事は何してるか、また前の仕事か。私だけならいいんだよ。周囲の人々に歩き回って、こればっかり聞きに来ていた。
玉城 怖かったんでしょうな。
安里 一つ言えることは、今だからそう言ってるけど、僕ら帰ってきてじきは、同級生とか若い連中でたくさん死んだのがおったから「生きて帰ってきて、生きてるだけでもうけです」。これが生きて帰ってきての本心だったですね。
新垣 よく生きて帰ってきたよ。
司会 玉城さんどうですか。
玉城 一番僕らの年代が戦争の犠牲者なのかな。小学校の時から兵隊のことしか教えられてないから。
安里 国のために働いて、犯罪人扱いされて不利益を被っても、その後も何の補償もないのは僕らぐらいですよ。

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