第四節 「読谷村戦没者名簿」からみた戦没状況


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一 海外での戦没状況

 地域別にみた読谷村戦没者数は〔表2〕のようになり、「海外」での戦没の内訳は〔表3〕のようになる。
 昭和十三年から十八年までのほとんどは中国での戦没である。昭和十九年になると中国に加えて、ビルマ、フィリピン、ソロモン諸島、サイパン、テニアン、パラオ、その他の南洋諸島が増えてくる。特に沖縄からの移民が多いサイパン、テニアンでの犠牲者が目立ち、南洋諸島全体では二二五人におよぶ。同じく沖縄からの移民が多いフィリピンでも総数で二三一人と多くの戦争犠牲者が出ている。
 特に戦没者が多い南洋諸島とフィリピンでの戦没状況をここで詳しくみてみたい。

南洋諸島での戦没状況

 南洋諸島での戦没状況は〔表4〕のようになり、一九四四年(昭和十九)が戦没者一七四人ともっとも多い。
 一九四一年(昭和十六)十二月、日本軍は真珠湾奇襲攻撃と同時にマレー半島への上陸によって太平洋戦争に突入、その直後にグアム島、ダバオ、ボルネオ島クチンを占領している。翌一九四二年(昭和十七)には、マニラ占領、ラバウル上陸、マレー半島ジョホールバル占領、シンガポール、パレンバン、ラングーン、ジャワ、スマトラ島メダン占領、そしてバターン半島占領、このときに「バターン死の行軍」を引き起こしている。同時に、日本の戦争拡大路線が破綻をむかえるのも早かった。ガナルカナル島撤退は一九四二年(昭和十七)十二月に決定され、翌年二月には撤退、一九四三年(昭和十八)四月には連合艦隊司令長官山本五十六が戦死、五月アッツ島守備隊玉砕、一九四四年(昭和十九)七月には「絶対国防圏」の要衝をなすサイパン島守備隊玉砕、同じく八月にはテニアン島守備隊玉砕と続く。
 これを裏付けるかのように、南洋諸島(サイパン、テニアンなど)での一九四四年(昭和十九)の月別戦没状況は〔表5〕のようになり、サイパンで六月、七月がもっとも多く六五人、テニアンでは七月から九月にかけてもっとも多く四二人となっている。
読谷村戦没者数・南洋諸島〔表4〕

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読谷村戦没者数・南洋諸島(昭和19年)〔表5〕

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フィリピンでの戦没状況

 一九四四年(昭和十九)十月十三日の台湾沖航空戦の直後、米軍がフィリピンのレイテ島に上陸、その後のレイテ沖海戦で日本軍は大敗、連合艦隊は事実上の壊滅状態に陥った。翌一九四五年(昭和二十)二月には日米の激戦はフィリピンの中心部マニラに及び、三月にはマニラの日本軍が撤退している。同じ三月には硫黄島でも米軍の上陸によって日本軍守備隊が玉砕している。同年二月にはすでに米軍機による日本本土への空襲もはじまっており、B29による東京への最初の夜間無差別爆撃があったのは三月十日のことである。
 フィリピンでの戦没者は一九四四年(昭和十九)の一七人に対して一九四五年(昭和二十)には二〇七人と激増する。昭和二十年をさらに月別にみたのが〔表6〕および〔図1〕である。昭和二十年六月から八月にかけてもっとも多い。その辺の事情を読谷山村比謝矼出身の新崎盛秀著『ふるさとの土』(昭和五十三年発行)からさぐってみた。
 新崎は、一九三九年(昭和十四)ダバオへ渡りカリナン尋常高等小学校の教員となった。一九四四年(昭和十九)になると米軍およびフィリピン軍の攻撃が迫り、翌年(昭和二十年)四月にはジャングルに逃げこみ避難小屋での生活をよぎなくされた。避難小屋生活は九月まで続き、九月十五日にタモガン捕虜収容所に収容されたという。収容所は四つあり、第一、二が日本軍、三、四が一般人となっていた。テント小屋は二〇〇近くもあり、一つに二、三〇人が生活していたとあるから、全体では五、六〇〇〇人にもなる。「せっかくジャングルから助かって収容所に来ながら、命を失った者が僅か十一月中旬までに七百余名」とあり、収容所での死亡も多かったようだ。「その内、日本引揚の乗船が十月初旬頃から始まり(途中省略)十一月になると各収容所共殆ど送り出し」を終わっていたとある。(以上新崎盛秀著『ふるさとの土』より)
 フィリピンでの戦没者がもっとも多い一九四五年(昭和二十)四月から八月にかけては、米軍およびフィリピン軍の進攻によって、沖縄からの移民を含めた日系人はジャングルに逃げこんだ時期である。九月になると収容所に収容されるが、その時期から戦没者の数も激減する。そして十一月にはほとんどの人が日本へ引き上げたためか、それ以後の戦没者の記録はごくわずかな数である。
 フィリピンでの戦線は沖縄への米軍上陸と直結している。レイテ沖海戦は南西諸島を襲った一九四四年(昭和十九)の十・十空襲の直後に起こったものであり、マニラの日本軍が敗退した一九四五年(昭和二十)三月には米艦隊は沖縄の慶良間諸島に迫っていた。新崎さんたちがジャングルに逃げこんだ一九四五年(昭和二十)四月は米軍が沖縄本島に上陸し日米の地上戦が開始された月である。
フィリピンでの戦没者数(昭和20年)〔図1〕

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読谷村戦没者数・フィリピン〔表6〕

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