第四章 米軍上陸後の収容所


<-前頁 次頁->

漢那地区

 四月五日頃東海岸の金武村一帯を制圧した米第六海兵師団は、早めに投降した住民を金武公会堂に集めて石川の収容所に移した。その後住民の数が増えたため四月中旬には金武国民学校グラウンドに収容所を設けた。この頃読谷山村内に臨時に収容された多くの住民が金武村金武に移動させられており、「戦災実態調査」の記録では四月十日頃から二十日にかけての移動が多い。五月初旬には城原にも新たに住民収容所が設けられ、金武国民学校に収容の住民は全員移動させられたという。
 読谷山村から移動させられた人数は九五一人で、読谷山村内に収容されていた住民のうちの約半数にあたる。この大部分は移動先の金武からさらに中川、漢那、宜野座などへ再移動となっている。その理由として右に述べた移動のほかに次の飛行場建設が多くの住民の記録の中に出てくる(読谷村「戦災実態調査」)。

金武飛行場の建設と住民の移動

 金武村に侵攻するとすぐに、米軍は金武後方の池原一帯に飛行場の建設を開始した。上陸前の三月末に飛行場建設予定地一帯に爆弾を投下して地ならしをしていたという。この滑走路は四月下旬にはほぼ完成して、五月には小型機が発着するようになった(金武町発行『金武町と基地』参照)。
 五月中旬から下旬にかけて、恩納岳や久志岳にたてこもってゲリラ戦を展開していた護郷隊(遊撃隊)が金武飛行場を襲撃、五月二十一日には米軍の燃料集積所を爆破した。すでに住民は米軍の管理下にあったが、飛行場に近接する金武・並里の住民は襲撃との関連を疑われ徹底した「掃討作戦」(家宅捜索)がおこなわれた。六月二十日には全住民の中川(銀原、城原)、漢那、宜野座への移動が命じられ、以後億首川を境に金武飛行場区域への立ち入りは禁じられた。金武・並里の焼け残った家屋は取り壊され、移動先の仮小屋建築の資材にされた。このとき伊芸・屋嘉の住民は石川地区に強制移動となっている。
 金武から移動した住民で形成された中川地区(中川・銀原・城原一帯)は、六月には「一万五〇〇〇余の難民が山羊小屋ほどの小屋を建てて住んでいた」という。七月には源原校、中川校の二つの学校も設立され、統合された中川校では「当時、生徒数は凡そ一〇〇〇名で読谷・嘉手納・北谷・那覇の人がその大多数を占めていた」(『並里区誌 戦前編』六一六頁)といい、いくつかの戦時体験記によれば中川校の初代校長は読谷山村字瀬名波出身の當山眞志だった。また漢那では同時期に漢那校が設立されている。七月には沖縄本島南部の住民が宜野座、漢那両地区に多数移動してきた。

画像

漢那市の成立

 一九四五年九月十二日発表の「地方行政緊急措置要綱」によって漢那・中川(銀原、城原)を統合した漢那市が成立した。九月二十日に市会議員選挙があり、選出された議員二〇人中に読谷山村出身の當山眞志、金城清純(字喜名)の二人が含まれている。また九月二十五日には市長選挙があり北谷村出身の新垣実が選出された。後に市長新垣実は胡差地区に移動し、十一月には中南部の住民も移動(帰村)していったので、漢那市議会は十二月二十四日に解散、市役所も同時に閉所となっている。
 漢那市成立前の人口は「漢那一万一五三一、銀原一万六九九六」(二七四頁参照)とあり、合計すると二万八五二七人になる。その後十月の人口は二万七六六一人(三一一頁参照)で、翌年一月の人口は一万七一六八人(三一四頁参照)に減少している。
 金武村は昭和十四年から県営の開墾事業がすすめられた地で、戦前日本軍の北(読谷)飛行場建設で土地を接収された読谷山村では開墾地に入植した住民も多かったといわれる。『宜野座村誌 第二巻』所収の「開墾関係資料」では一五人の入植者が確認できる。米軍上陸前に金武村へ避難した住民は総数で六五三人にのぼるが、そのうちの一人當山眞志は次のように語っている。
 中川に疎開したのは、淵上知事時代に建設された拓南訓練所の小屋などがあって大変助かりました。中川や漢那では、この拓南訓練所の小屋を根城にして、山中に引っこもり、夜は夜盗のように里に下りて食料をあさったものです。国頭に疎開し、南下しようとして山中をさまよい歩いた人たちに比べると楽なものでした。(『読谷村誌』昭和四十四年発行より)
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数は中川地区一四八五人、漢那地区二〇〇三人の計三四八八人で、石川地区に次いで多い(三章五節参考資料2、二六一頁参照)。
<-前頁 次頁->