第四章 米軍上陸後の収容所


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宜野座地区

 五月になるとアイランドコマンド地区が宜野座本部(ほんぶ)地区と安慶田本部(ほんぶ)地区に分割されたことで宜野座は北部軍政地区の中心となった。この頃から山中に避難していた地元の住民と、米軍上陸前に避難してきた沖縄本島中南部の住民が宜野座、惣慶、福山、大久保などに収容され始める(福山は字惣慶の北部、昭和二十一年に分離して行政区となる)。
 読谷山村から国頭へ避難して、その後南下して大久保あたりに収容されたという具志堅※※(儀間出身)は「私たちが宜野座の収容所に収容されたのは、五月頃で、付近の住民はまだ、山に避難中だったようです。家という家は皆、空き家になっていました。一つのテントには、大体二、三〇人くらい入り、私たちのテントは読谷出身者でうまりました」という(『宜野座村誌 第二巻』より)。
 「G2レポート」五月十三日報告には「現在、一四万六〇六〇人の住民が保護されているが、先週より一万八七二七人増加している。そのほとんどは、島の北部地区で保護された。北部地区には、まだ、軍の管理下にない住民が数多くいる」と記されている。
 六月末には中城村島袋から福山への強制移動があった。住民の体験記からいくつか引用する。
 「宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました」「島袋には二か月いてから、みんなトラックで宜野座の福山に移動したんです。福山には四万八〇〇〇名ほどの避難民が集まっておったんですよ」「六月の末に避難民が島袋から移動させられるとき、四、五日先にキャンプ作りとして、私たちは宜野座村の福山に送られました」(『沖縄県史 沖縄戦記録1』より)。
 福山での収容生活の悲惨さについて、当時大久保に収容されていた安里源秀(後宜野座市長)は次のように記している。
 福山に中頭や島尻から大勢の難民が送られて来たことを知り、カンパン《収容所 引用者注》を出してもらい福山まで行ってみました。その人たちは島袋(中城村)から送られてきたのでした。(途中省略)福山は惣慶、宜野座と違い、民家はほとんどなくわずかばかりの開墾家屋があるだけでした。それで島袋から送られてきた人たちはほとんど宿る家もなく、野原や路傍にほおり出されたようなものでした。彼らは雨露をしのぐため山へ入り竹や木を切り出し小屋を作りました。彼らの小屋に比べれば山羊小屋は御殿でした。当時避難民の最もほしい食物は青い物でしたが、これはほとんど手に入りませんでした。それで彼らは雑草、木の葉、海草など食えるものは何でも食べました。(『宜野座村誌 第二巻』より)
 七月には具志川村具志川からも惣慶、福山への強制移動があった。
 宜野座地区の収容所は宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれており、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。それぞれ市長も任命されて、「新里善助日記」(『宜野座村誌 第二巻』所収)には「元福山市長 喜名孟順、元惣慶市長 新里善助、元宜野座市長 古波蔵必達」と記録されている。惣慶市長の説明には「一九四五年八月十三日当選(ママ)、同九月七日村長を市長と改称す」とあるから、各部落ごとに市長がおかれて行政が行われたのはごくわずかの期間である。

宜野座市の成立

 一九四五年九月の「地方行政緊急措置要項」によって九月二十日に市会議員選挙、九月二十五日に市長選挙が行われて宜野座市が成立した。市会議員は二五人、市長には前述した安里源秀が選出された。
 宜野座市成立前の人口は「宜野座一万一九六八、福山二万三一七〇」(二七四頁参照)とあり、合計すると三万五一三八人になる。その後十月の人口は三万七〇三六人(三一一頁参照)で、翌年一月の人口は二万四四四九人(三一四頁参照)である。
 前掲「新里善助日記」には宜野座市のより詳しい人口統計が収録されている。「昭和二十年十二月現在ナリ」と記されたこの統計から宜野座、惣慶、福山の各区域に居住する出身地別人口の上位をあげると次表のようになる。
(『宜野座村誌 第二巻』所収「新里善助日記」より作成)
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 一九四五年十二月はすでに住民の帰村が始まっている時期ではあるが、三つの区域を合わせた総数は「三万九六五八人」と記されているから、帰村前とほぼ同数である。読谷山村民は宜野座と福山に集中しており、宜野座市全体での居住住民数でも、北谷村五四一二人、具志川村三九一四人に次いで読谷山村三九一二人は多い人数である。前述した島袋を含む中城村は三三六五人となっている。
 また宜野座には早い時期から米軍野戦病院が設置されて、沖縄本島南部からの重傷者が多く運び込まれた。その後十月頃に野戦病院が宜野座国民学校跡地に移動し、民間の宜野座病院となった。昭和六〇年に『宜野座米軍野戦病院集団埋葬地集骨報告書』が発行され、『宜野座村誌 第二巻』には「古知屋共同墓地死亡者名簿」「福山共同墓地死亡者名簿」が収録されているので、この地区での死亡者を確認することができる。
 読谷山村への帰村前の読谷山村民の居住者数(一九四六年九月付)は一二一九人である(三章五節参考資料2、二六一頁参照)。
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