第四章 米軍上陸後の収容所


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資料 楚辺収容所関係記事抜粋(『沖縄新聞』より)

※『金武町史 第二巻戦争・資料編』所収の「沖縄新聞」より、楚辺捕虜収容所に関する記事を以下に抜粋して掲載する。
第1号(昭和二十一年五月四日)より
収容所だより「楚辺事件落着」
二十七日朝楚辺収容所では作業出場に際し、サボターヂュ的態度に出た為MP当局は作業出場を中止せしめ、警備員を増加し、万一に備へたが、二十九日朝には一部が作業に出場し三十日には全く平常に復した。帰国遅延に対する不満に起因したものであるが、右事件に関しPW事務所長クレーマー中尉は左の如く語った。
「楚辺収容所では作業不出場期間給与は絶たれ、すべての私物は引上げられ、一定期間娯楽が禁止された。米軍に対する反抗行為は、待遇の悪化と帰国の遅延といふ結果をもたらすであらう。」
第3号(昭和二十一年五月十七日)より
収容所だより(楚辺)
ストライキ事件で二週間、総ての娯楽機関を禁止されていた楚辺収容所もその期限が過ぎたので幹部の人事を刷新しシュレダー新所長の積極的後援の下に演芸スポーツ文芸方面に大活躍を開始し、従来の陰気な空気を一掃し明朗な収容所を再建しようと意気込んでいる。
第4号(昭和二十一年五月二十四日)より
えんげい「楚辺劇場 再出発へ!」
先に不慮の事故で無惨凡てを烏有(うゆう)に帰した我演芸部では全柵のファン待望の中に再出発の準備に着手した。然し現在の状況下の再起は恐らく血の滲む様な苦闘であらう。だが健在な部員と名指導員者花蔭氏を中心とする揺ぎない堅陣は連隊本部の人達の献身的支援の下に絢爛たるステージを再現する日も遠くないだらう。諸君!新劇場建設の槌の音が響いて来るではないか!祖国の妻を、恋人を、妹を偲ばず「お君ちゃん」の麗姿を見る日も近づいた。
第5号(昭和二十一年五月三十一日)より
野球「嘉手納 楚辺に連勝」
嘉手納対楚辺の野球戦十九日楚辺球場で二十六日嘉手納球場で行はれたが三勝一引分で嘉手納が連勝した。
角力「楚辺連勝」
楚辺対嘉手納の角力試合は十九日楚辺の土俵で行はれ楚辺が七勝三敗で勝ち、番外の三人抜では楚辺の大河内君が五人抜では嘉手納の大和櫻が優勝した。次いで二十六日第二回対抗戦が嘉手納の土俵で行はれ楚辺が六勝四敗で連勝した。
第6号(昭和二十一年六月七日)より
「楚辺新聞 活躍」
楚辺ニュース板 皆様の新聞は新聞係内保氏責任編集をとっているが最近発表されたものは内外ニュースの外文化部長黒岩氏翻訳の「日本斯くして敗れたり」「真珠湾攻撃より日本進駐まで」宮崎通訳の「ミッドウェイ海戦」等で現在発表中のものは黒岩氏訳の「真相沖縄戦記」が好評を博している。
文芸では詩人田中氏担当で先週は全文芸特集号を掲載の「青空ダブちゃん」は井上画伯の力作で人気を呼んでいる。
第7号(昭和二十一年六月十四日)より
収容所めぐり「涙ぐましい再建の努力(楚辺の巻)」
楚辺収容所は今や昔日の落つきを見せて来た事件に蹉跌して現在土間生活の不自由な中にも不平を云はず自ら簡素の実を見出し起居している。朝の作業は全員駈足集合菜葉服ならぬPWのしるしも鮮やかに整然と作業に出場する光景は見ていても涙ぐましいものがある。右の通路は病院の長棟軍医さんの話では練兵休は僅かに五人現在マラリヤ予防のため日夕点呼はグラウンドに集合。解散後一列服薬励行は一寸苦しい話。両国の花火見物妓二人の濃艶なる立看板の中が楚辺温泉郷。水槽大タンクがどっかりと座す軍需工場ならぬ高いピッツバーグの煙突が二本煙をもくもくと吐いている傍らが瀟洒な理髪店。引返して連隊本部情報は文化部ニュース板「皆様の新聞」はここで作製される。演芸部「南星劇場」は去る六月一日木の香も新しく落成披露したもの。野球相撲柔道競技部は夫々再起新人メンバーを揃えて柵内対抗遠征等に活発な働きを見せている。直ぐ突き当りが炊事設備の完全なる事は各収容所随一とのこと。
ともあれ楚辺再建は日本再建に通ずるものと張切っている。髭をひねり乍ら高取連隊長の弁。皆んなのよい意見は全員の協力の下に米軍の協調を得る様極力努力し晴れて帰る日まで全員は真の日本人としての襟度(きんど)を失はず親和の生活をして行きたいといふのが私の念願です。
第8号(昭和二十一年六月二十一日)より
「初雁」(楚辺)
楚辺では所長の好意により花陰氏を長として演芸中隊を編成 部員四十名が合宿生活を始めた その成果として去る八日夜の第二回公演では時代劇「初雁」が演芸部創立以来のヒットとして賞賛を博した
第9号(昭和二十一年六月二十八日)より
「活発な文化活動 各柵の掲示板を見る」
内外の情勢に対する認識を深め帰国後の生活に備へようと各収容所の文化活動が最近頓に活発になったがその一部として壁新聞乃至掲示板を見て廻る
楚辺「皆様の新聞」
帰国後我々が世間から取り残されては大変と新聞室は大車輪だが内外ニュースの外今週発表されたものは倉辺氏訳「平和の解剖と吾々の進むべき道」「文芸復興」「マックヮーサー元帥座右銘」等で熱心な読者を引きつけている
(以下、小禄掲示板、小野山(ママ)タイムス、牧港掲示板、嘉手納掲示板、オバスカム掲示板と続くが省略)
第10号(昭和二十一年七月五日)より
「米軍規定により慰霊碑は不許」
沖縄戦終焉以来正に一年今次世界大戦最終の悲劇の地たる沖縄に若い生命を捧げた数万の戦友、敗戦の故に今や骨を拾ふ術もなく永遠に草むす屍水漬く屍となった戦友の冥福を祈りその霊を安らかに眠らせて平和日本建設の餞(はなむけ)にしたいといふ希ひが最近各収容所に起って来た
即ち楚辺収容所では慰霊碑の建設を発議し米軍との折衝を進めている外、他の収容所にも同様な計画乃至希望がある事実に鑑み島の一隅にせめて一基の碑を設けて戦没者の冥福を祈ることが出来たならばとMP当局の意向をうかゞって見たところ斯る企画は遺憾乍ら米軍の規定により許されないことが明らかにされた従って碑を建てるとか合同の慰霊祭を行ふとかいふやうなことは全く望めないのであってかゝる意図を有する向きは慎重なる考慮を払ふべきであろう
収容所ニュース 楚辺
文化部は新聞文芸に活発な動きを見せているが三十日には南星画廊で第一回総合画展覧会を開催の予定
相撲 楚辺楽勝
楚辺対オバスカム戦は楚辺土俵で興行オ軍の土俵入りに次いで新調の化粧廻しも華やかな楚軍の土俵入り横綱の土俵入りが行はれて開戦十一対四で楚軍の圧倒的勝利に帰した
第11号(昭和二十一年七月十二日)より
「『哀艶花』続演」
楚辺演芸部では六月第五回公演として現代劇「哀艶花」(四幕六景)時代舞踊劇「忠次踊の旅を行く」(二景)を上演し絶賛を浴びファンの要望に応へて翌七月再演した
野球 優勝に邁進する嘉手納と楚辺軍
◇楚辺2‐1牧港
楚辺軍は七日牧港に遠征 二対一で牧港を破り二連覇を記録したので来週の楚辺対嘉手納軍がリーグ帰趨を決する一戦となった
第12号(昭和二十一年七月十九日)より
「楽団再編成(楚辺)」
新たに屋嘉よりアコーデオンの名手加藤君を迎へ入れた楚辺南十字星楽団は愈々メンバー一新ギター牧浦トランペット榎本ハーモニカ森川チェロ村上ウクレレ岡原ドラム倉橋とそれぞれ一流どころを網羅近頃上昇している 劇舞踊の伴奏に光彩を添えており近く音楽コンサートを開催すべく計画中である
第15号(昭和二十一年八月九日)より
「楚辺でも映画」
楚辺収容所では二日夜映画会を開催「米陸海軍兵器の驚異」とハーディ・ローレル極楽コンビの「闘牛師」をPWの技師により上映何年振りかに見る映画に広場は満員の盛況であった映画会はマッコイ中尉の厚意によるもので今後毎週二回上映されることになっている
第17号(昭和二十一年八月二十三日)より
「野球・相撲 リーグ戦終わる」
リーグ戦最終戦は十八日楚辺対小禄戦を挙行の予定であったが楚辺遠征できず棄権したので小禄が一勝を記録し六月末以来一ヶ月半に亘って五収容所間に幾多の熱戦を繰広げた野球相撲リーグ戦は此処に幕を閉じた野球は嘉手納が四戦四勝で圧倒的に優勝し楚辺と小禄が共に二勝二敗で勝率五割で二三位を占め牧港とライカムが一勝三敗二割五分で四五位となり相撲は嘉手納と牧港が三勝無敗一引分勝率八割七分五厘で優勝を分け合ひ小禄が二勝二敗五割で三位楚辺が一勝三敗二割五分で四位ライカムは四戦四敗で五位となった
「帰国のサーヂャンに感謝の贈物」
楚辺PW親愛の的となっていたサーヂャント・リンバーグがゴーホームするので連隊各部が発起となり日頃の好意に酬ゆるため感謝の贈物をすることゝなり全柵部隊長に諮ったところ立ちどころに熱意の籠ったプレゼントが殺到したので十一日連隊本部で贈呈したリンバーグ君は鮮やかな挙手の敬礼でサンキュー・ベリマッチと大喜びであったなほリンバーグ君は沖縄戦に参加負傷を指に受けている
「娯楽は条件付(楚辺)」
映画は引続き週二回上映されていたが先頃若干の逃亡者があったので二日間の娯楽禁止を受けたしかしその後逃亡者もないので逃亡者のある時はの条件付で許可された逃亡者があっては全員の迷惑を全柵一致柵内の明朗化に努力している
「『楚辺小唄』と『小禄ブルース』」
小禄では暫く前から村越三郎氏作曲の「小禄ブルース」「宮古想えば」の二曲が全柵に愛唱されているが楚辺ではこの程「楚辺小唄」を募集沖野白帆氏の当選作を南十字星楽団が作曲松本圭之助氏の振付で近く発表会を開くことになった「楚辺小唄」「小禄ブルース」の歌詞下の通り
 楚辺小唄 沖野白帆 作詞
 一 朝だ 夜明けだ南風吹けば
   登る朝日は平和の象徴
   今日も愉快に希望の一日
   皆元気でそれやろうじゃないか

 二三略

 四 あらい嵐も苦しいことも
   過ぎてしまえば楽しい夢よ
   帰国偲へば心がはずむ
   皆一緒にそれ帰ろじゃないか

(小禄キャムプ・ブルースは省略)
第18号(昭和二十一年八月三十日)より
「読者を惹く挿絵入の小説(楚辺)」
楚辺文化部では帰国迄文化生活をと内保部長以下大活躍であるが文化部前の通りには大掲示板が幾つも並びニュース文芸を始め柵内より募集した傑作小説が色彩も鮮やかな挿絵入りで一面に掲載され人気を呼んでいる夜のひとときを散策する人のために最近掲示板には電灯があかあかと灯され正に「文化通り」を現出している
演芸だより
楚辺収容所では先週映画二回演芸が一回と娯楽面は順調であるが演芸の最近の出し物は「人生劇場」青春辺残侠編「愛憎峠」「韋駄天抜八」等で得にこの間ラヂオドラマが行はれ青春倶楽部の「故郷の灯」「母の横顔」「紅椿」「石狩の春」及び三葉倶楽部の「陽炎の誓」「下田物語」は好評を博した。
第19号(昭和二十一年九月六日)より
「炎天下の熱戦 嘉手納対楚辺」
嘉手納では一日野球相撲籠球卓球各チームが大挙楚辺に遠征炎暑の下に熱戦を繰広げた。
第20号(昭和二十一年九月十三日)より
演芸だより(楚辺)
映画はMP当局の好意と映画部の活躍に依り毎週二三回上映されているが今週は上映四回といふ記録を作って洋画ファンを喜ばせている又演芸部では七日夜第二十三回公演をA組に依って上演現代劇「生命の花」(四幕)時代劇菊池寛作「眞如」(五幕)を夫々上演し演芸部創立以来のヒットとして好評を博した尚ラジオ・ドラマは青春クラブの「ハルピンの夜は更けて」並びに三葉クラブの「婦系図」がファンを喜ばせた
第21号(昭和二十一年九月二十日)より
「楚辺で世論調査」
楚辺では帰国後の生活方針の一助として「将来再建日本の国是として商業工業農業水産観光の五つの内どの一つを選びますか?」との課題の下に第一回「世論調査」を行ひ柵全員より投票を求めることになった
(楚辺)演芸部では先に物故した岡原博君の追善公演として十四日夜「天国の旅」並びに現代劇「意気地」を上演した 尚前部長花陰光儀氏及び部員風間豊君はこの度帰国するので後任部長には仁子勝巳氏が就任した
第22号(昭和二十一年九月二十七日)より
SPORTS 「各種目に楚辺小禄を破る」
廿二日(日曜)ライカムでは楚辺から野球チーム小禄から籠球排球卓球各チームを迎えてライカム運動部掉尾(とうび)の試合として柵内全員の応援に意気昂り排球B組戦に敗れた外全種目快勝しライカム運動部最後の日を飾った なほ運動各部は日夕点呼後解散式を挙行した
(成績省略)
第23号(昭和二十一年十月四日)より
「復員遂に始まる LST二隻に分乗 第一回帰国者出航す 船内に友軍被服を準備」
遂に来た復員開始の日―十月三日
この日を待っていた帰国者一七九八名は嘉手納牧港ライカム及び小禄の集結場所から折柄作業にでて行く戦友達に千切れる程手を振りつつトラックを連ねて那覇港に向ふ那覇港には港湾倉庫が小野山(ママ)収容所の真正面の岸壁にLST(上陸用舟艇)が一隻大きな扉を観音開きに開いてピッタリと上陸板をおろしているそして牧港寄りの岸壁にもう一隻牧港寄りの一隻には嘉手納から来た八百名が他の一隻には残りの千名が見る間に吸い込まれて行く船内はただ広い船倉にゴザを敷いて悠々と寝そべることが出来る
帰国者内訳
第一次復員船で帰国する各収容所の人員は次の通りである
ベース・キャムプ三名、病院三名、ライカム三三〇名、楚辺二六六名、嘉手納五五九名、牧港四〇三名、小野山(ママ)八三名、小禄一五一名、合計一七八九名
第二船は今月半ば
我々の復員は別項の如くマ司令部の日本政府に対する指令に基づいて開始されたのであるが同指令は「戦争犯罪裁判関係者を除く」総ての元日本軍人を十二月丗一日までに帰国せしめよと明瞭に指示している従って残った我々も年末までには一人残らず祖国の土を踏むことが出来ると確信してよいマ司令部から日本政府に命令が出た以上我々はもう何も疑ひをもつ必要はない第一回帰国者は三日出航したが第二船は今月の半ば同じく千八百名を乗せて出航の予定である
第24号(昭和二十一年十月十八日(ママ))より
「第二次帰国者千八百名 ライカムに集結を完了 十五日頃出航の予定」
第二次復員船は予定通り行けば十五日遅くも十七日までには出航の予定で帰国予定者千八百名は八、九の両日に亘り帰国者集結所に当てられたライカム収容所に移動を完了賃金支払、身体検査等を受けながら船を待っている。
第二次復員船の帰国者内訳は右の通りである。
楚辺六七〇名、嘉手納三六七名、牧港三二四名、小野山(ママ)二一二名、小禄一二三名、ライカム九四名、ベースキャムプ七名、病院三名、計一八〇〇名
帰国者千八百名を受け入れたライカムでは立錐の余地なきまでに幕舎を延し大型幕舎に五十名宛収容しているが収容所維持員百五十名を残して柵外作業員百十二名は九日嘉手納へ移動しここにライカムは帰国者集結所としての体制を完備本格的活動を開始した。
「楚辺収容所先づ解体 残留者は嘉手納に移動」
屋嘉収容所に次いで古い歴史を持つ楚辺収容所は復員に伴ふ収容所整理縮減の必要から遂に八日を以て解体することになり帰国する柵内作業員全員及び柵外作業員を残して作業員九九一名は七日嘉手納へ移動し帰国者は八日柵内を整理してライカムの集結所に移った これによって本島の収容所は五ヶ所になったが嘉手納収容所はライカムからの二百名小禄から移動した九九名を加へて現在員二八四八名
「部隊内住込者も帰国は一緒に」
楚辺収容所作業員六十六名は六〇一工兵隊内に起居作業に従事しているが右は米軍の大量帰還に伴ひガードの不足を来しているので逃走等を絶対しない条件でシビリアンと同様な待遇を受けることとなったものである これらの作業員の帰国は一般作業員と同様カードが来次第帰国することになっており第二次復員船では既に七名帰国することになっている 従って右の様な取扱ひを受けても特別に帰国出来る見返りなどは欲しくない
第25号終刊号(昭和二十一年十月十八日)より
帰国者は十七日予定通り出航した
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