あー、昔あたる事、まー話すしが。ある女ぬ那覇から用事ぉ済まち家かい帰いんでぃねー、喜名番所はいかかてぃ。
うりからなー、夜ん暮くてぃ、行ちーねー多幸山んかいフェーライぬ居んち、なー。今度ぉ其処んかい泊まいんち、さーなかい。あんさーに、翌日行ちゅる事なとーたん。
あん、うりなかいまた、うぬ道すじぬ歌ぬ一ちぇーあしが。歌一ちぇー、
多幸山ぁフェーライてぃんどー
喜名番所に泊まらなやー
女ぬてぃらむん番所に泊まゆみ
急ぎ急ぎシマかからー
あー、昔あたる事、まー話すしが。ある女ぬ那覇から用事ぉ済まち家かい帰いんでぃねー、喜名番所はいかかてぃ。
うりからなー、夜ん暮くてぃ、行ちーねー多幸山んかいフェーライぬ居んち、なー。今度ぉ其処んかい泊まいんち、さーなかい。あんさーに、翌日行ちゅる事なとーたん。
あん、うりなかいまた、うぬ道すじぬ歌ぬ一ちぇーあしが。歌一ちぇー、
多幸山ぁフェーライてぃんどー
喜名番所に泊まらなやー
女ぬてぃらむん番所に泊まゆみ
急ぎ急ぎシマかからー
昔あったことを話してみよう。ある女が那覇での用事を済ませて、家に帰る途中に喜名番所まで来た。
喜名番所に着く頃には、日が暮れるからね。多幸山にはフェーレー(追い剥ぎ)が出るというので、一般には喜名番所で一泊し、翌日、目的地へ向かうことが多かった。
その時の様子がこの歌に表れているよ。それを一つ。
多幸山は盗賊が出るよ
喜名番所に泊まろうか
女が番所に泊まるのか
急いで家に帰ろう
首里王府時代、間切役人が行政事務を行う役所を番所といった。はじめ座喜味にあり、後に喜名に移されたと推測され、移動の年代は不明だが、『琉球国旧記』(1731年)には番所は喜名にあると記載される。喜名番所は琉歌や組踊のなかにも登場し、沖縄本島を南北に結ぶ中継地として知られていた。1853年、ペリー提督配下の探検隊がここで休憩し、地元民から鶏や卵、キュウリをもらうなど歓待を受けた。 廃藩置県後、番所は役場に代わり、また村内で最初の小学校や郵便局、巡査駐在所など公的機関が設置され、喜名は読谷山の政治、経済、教育の中心地へと発展した。明治から大正期に那覇―名護間を結ぶ県道が整備されると、客馬車や馬車宿の営業がはじまった。その後、那覇―名護間をバスが運行するようになり、喜名に停留所がおかれると、人びとの往来は益々盛んになった。役場前の通りは、医院、雑貨店、理髪店、銭湯、そば屋など、多くの商店が建ち並びにぎわった。当時の「読谷山村道路元標」は現在も番所前に残り、往時を偲ばせる。 さらに歴史をさかのぼると、三山時代(15世紀前半)尚巴志が喜名に滞在し北山征伐へ向かったとの伝承が残り、喜名古窯が存在するなど、この地は古来から要所であったことがうかがわれる。 沖縄戦で読谷山村役場は焼失し、その後国道拡張整備により喜名番所跡は大きく姿を変えた。2005年、敷地跡の一部が整備され、道の駅「喜名番所」として生まれ変わり、村内観光案内などの情報発信、休憩施設として利用されている。(「喜名ガイドマップ」喜名の歴史と喜名番所)