読谷村しまくとぅば「むんがたい」

多幸山フェーライと喜名番所 たこうやまふぇーらいときなばんしょ

話者 平安常清(1896・M29) 地域 比謝 時間 00:51
  • しまくとぅば
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 あー、(むかし)あたる(くとぅ)、まー(はなし)すしが。ある(ゐなぐ)那覇(なーふぁ)から用事(ゆーじゅ)()まち(やー)かい(けー)いんでぃねー、喜名(ちなー)番所(ばんじゅ)はいかかてぃ。


 うりからなー、(ゆー)(ゆっ)くてぃ、()ちーねー多幸山(たこうやま)んかいフェーライぬ(をぅ)んち、なー。今度(くんど)其処(うま)んかい(とぅ)まいんち、さーなかい。あんさーに、翌日(なーちゃ)()ちゅる(くとぅ)なとーたん。


 あん、うりなかいまた、うぬ(みち)すじぬ(うた)(てぃー)ちぇーあしが。(うた)(てぃー)ちぇー、


  多幸山(たこうやま)ぁフェーライてぃんどー


  喜名(ちなー)番所(ばんじゅ)(とぅ)まらなやー


  (ゐなぐ)ぬてぃらむん番所(ばんじゅ)(とぅ)まゆみ


  (いす)()ぎシマかからー


 昔あったことを話してみよう。ある女が那覇での用事を済ませて、家に帰る途中に喜名番所まで来た。



 喜名番所に着く頃には、日が暮れるからね。多幸山にはフェーレー(追い剥ぎ)が出るというので、一般には喜名番所で一泊し、翌日、目的地へ向かうことが多かった。


 その時の様子がこの歌に表れているよ。それを一つ。



  多幸山は盗賊が出るよ


  喜名番所に泊まろうか


  女が番所に泊まるのか


  急いで家に帰ろう

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解説

 首里王府時代、間切役人が行政事務を行う役所を番所といった。はじめ座喜味にあり、後に喜名に移されたと推測され、移動の年代は不明だが、『琉球国旧記』(1731年)には番所は喜名にあると記載される。喜名番所は琉歌や組踊のなかにも登場し、沖縄本島を南北に結ぶ中継地として知られていた。1853年、ペリー提督配下の探検隊がここで休憩し、地元民から鶏や卵、キュウリをもらうなど歓待を受けた。 廃藩置県後、番所は役場に代わり、また村内で最初の小学校や郵便局、巡査駐在所など公的機関が設置され、喜名は読谷山の政治、経済、教育の中心地へと発展した。明治から大正期に那覇―名護間を結ぶ県道が整備されると、客馬車や馬車宿の営業がはじまった。その後、那覇―名護間をバスが運行するようになり、喜名に停留所がおかれると、人びとの往来は益々盛んになった。役場前の通りは、医院、雑貨店、理髪店、銭湯、そば屋など、多くの商店が建ち並びにぎわった。当時の「読谷山村道路元標」は現在も番所前に残り、往時を偲ばせる。 さらに歴史をさかのぼると、三山時代(15世紀前半)尚巴志が喜名に滞在し北山征伐へ向かったとの伝承が残り、喜名古窯が存在するなど、この地は古来から要所であったことがうかがわれる。  沖縄戦で読谷山村役場は焼失し、その後国道拡張整備により喜名番所跡は大きく姿を変えた。2005年、敷地跡の一部が整備され、道の駅「喜名番所」として生まれ変わり、村内観光案内などの情報発信、休憩施設として利用されている。(「喜名ガイドマップ」喜名の歴史と喜名番所)

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