読谷村しまくとぅば「むんがたい」

喜名観音堂の由来 きなかんのんどうのゆらい

話者 松田栄清(1895・M28) 地域 喜名 時間 04:00
  • しまくとぅば
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 くぬ観音堂(くゎんぬんどー)ぬ、(なま)(まつ)りしぇーる敷地(しきち)ぇ、(はじ)まいや其処(ぅんま)ぁ、喜名(きなー)ぬヌン殿内(どぅんち)(ひゃーく)(じい)んでぃる(ちゅ)ぬ、墓敷(はかしち)すんち、あぬ(めー)窪地(くぶの)()(はじ)みてーたんでぃ。


 うぬヌン殿内(どぅんち)(はーく)(じい)んでぃる(ちゅ)ぬ、墓敷(はかしち)仕掛(しか)きとーしが、くれーまた黄金森(くがにむい)んち、くんぐとーぬ(さの)(ねー)んりる(はなしー)てー、沖縄(うちなー)んかいあんちゅーか。(くし)ぇ、あぬー、()(ざん)くさてぃさーに、くぬ(むい)ぐゎーや、四方(しらー)八方(はっぽー)かんし(みぞ)(みぐ)とーるばーてー。



 あんさーい、読谷村(よみたんその)ぉ、是非(じふぃ)其処(ぅんま)んかい、首里(すい)(とぅー)さい、金武(ちぬ)(とぅー)さくとぅ、あがとぅー(ぅん)(うが)でーならんくとぅ、でぃー其処(ぅんま)んかい、御観音(うかんぬん)(さま)うんちけーし(くー)んでぃる(くとぅ)んかいなてぃさーに。


 あんさーい、「あーあ、其処(ぅんま)(わー)墓敷(はかしち)かくてーくとぅ、あんしぇーならん」ちゃくとぅ。うりから、「公儀(くーじ)とぅ一人(いちにん)とぅ(あらそ)いないるばーい。ぃやーや公儀(くーじ)ねー()きれー」んち、あんさーに観音堂(くゎんにんどー)(ちゅく)たんでぃ。




 うぬ観音堂(くゎんぬんどー)金武(きん)(てぃら)からうんちけーしっちゃんでぃ。やはり、首里(すい)ゆかんあれー(さち)んりる(はなし)やさ金武(きの)ぉ。


 あんしさくとぅ、丁度(ちょーる)九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(きゅう)九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(かのと)(うし)(ふぃー)にうんちけーしっ(ちゃ)んでぃ。うぬ(ほとけ)(さま)うんちけーさる(ふぃー)とぅ、また(くし)山内(やまち)ぬお(ばあ)んち、うぬ(ちゅ)九十歳(きゅうじっさい)(あま)てぃから(とぅし)()んそーちゃがやー。(かみ)とぅ一緒(まじゅ)(ぅん)まりてぃる、うさきーなー(とぅし)(うが)でーみしぇーるんでぃる物語(むぬがたい)やしが。


 うりから、九月(くんぐゎち)十八夜(じゅーはちや)に、うぬ(かみ)金武(きん)(てぃら)からうんちけーしっ(ちょー)くとぅ、九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(そん)(うが)み、また十九日(じゅーくにち)喜名(きなー)ぬ、なー老人(ゐーち)(わか)(すり)てぃ、其処(ぅんま)んじお(まつ)りやたるばーてー。(ぼー)使(ちか)たい、手踊(ておど)りしちゃい、舞踊(ぶよう)。うぬ、(くし)山内(やまち)ぬお(ばあ)さんぬゥンバギー祝儀(すーじ)とぅ、くぬ観音堂(くゎんぬんどー)(ほとけ)(さま)うんちけーさる(ふぃー)とぅ、丁度(ちょーる)九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(きゅう)九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(かのと)(うし)(ふぃー)にうんちけーし(ちゃ)んでぃ。


 うぬ観音堂(くゎんぬんどー)女御神(ゐなうかみ)ぇ、(わらび)(ちゃー)が、(ぅん)まりーる(ばー)や、「(てぃ)(しみ)学問(がくむん)(すぐ)らちうたびんそーり」んち、あぬヲゥーブシとぅか、うりから、(しみ)(ふでぃ)(かび)(うさ)ぎてぃぬ、其処(ぅんま)願望(ばんもー)するばーてー。また(ゐなぐ)(ぅん)まりーねー、あぬヲゥーブシとぅか(うさ)ぎてぃぬ、「(てぃ)(ばな)(すぐ)らし(むん)なちうたびんそーり」んち。


 だー、(ぅんかし)ぇ、(なま)ぬぐとぅ(じん)()れー(こー)てぃ()らりーるむのーあらん、むる自給(じきゅう)自足(じそく)るやくとぅ。うぬ(てぃ)(ばな)んでぃねー、くぬ着物(ちぬ)自分(どぅー)くる(いぇー)()みてぃ、自分(どぅー)くる(かし)しこーてぃ(はた)んかい()いてーくとぅ。あんさーにうぬ女御神(ゐなぐうかみ)ぇ、あぬ繁昌(はんじょう)とぅか、うりから(てぃ)(しみ)学問(がくむん)、なー(わらん)(ちゃ)教育(きょういく)やるばーてー、くぬ女御神(ゐなぐうかみ)ぇ。


 また、あぬ土帝君(とぅーてぃーくー)やまた(ゐきが)御神(うかみ)やるばーてー。其処(ぅんま)ぁ、農業(のうぎょう)(かみ)(はたら)きわる裕福(ゆふく)(むの)()りいちゅるんち。うぬ(ちゅ)ぉ、土帝君(とぅーてぃーくー)やかんし、片手(かたでぃー)(くぇー)(かた)みてぃ、片手(かたでぃー)やかんし黄金(くがに)()ちょーるばーてー。あんし、(はたら)ちゅる(ちゅ)ぬる黄金(くがに)()ちゆーする。(はたら)かん(ちゅ)ぉちゃー貧乏(びんぼう)(くぇー)かんてぃーすんどーりる意味(いみ)、あぬ土帝君(とぅーてぃーくー)や。


 あんさーい、九月(くがつ)十八夜(じゅーはちや)(そん)(うが)み、また十九日(じゅーくにち)(あざ)(うが)みやたしがよー。なー、(なま)ぁ、うりんたったい廃止(はいし)なてぃ、なー役員(やくいん)びかーんさーに、喜名(ちなー)んでー、其処(ぅんま)(うが)むる(くとぅ)なとーしがよー。

 観音堂の始まりの話ね。今、観音堂を祀ってある敷地はね、喜名のヌン殿内の百お爺さんが墓を造るために、前の窪地の地均しを始めていたそうだ。


 ヌン殿内の百お爺さんが均しているその土地は、クガニムイ(黄金の丘)と呼ばれ、このような拝所は、沖縄にもそうそうないという話だよ。後方には敷地を抱くように林があり、四方八方は溝に囲まれているすばらしい丘でね。


 それで、読谷山から観音様を拝みに行くのに、首里や金武までは遠すぎるので、村はぜひそこに観音様を勧請(かんじょう)しようと決めたんだ。



 当初、ヌン殿内の百お爺さんは「いや、それは困る。ここは私が墓を造るために準備しているので、それは出来ない」と断わった。けれども、「お役所と個人で争っても勝ち目はないよ、お前はお役所に譲ってやれ」といわれて、そこに観音堂が造られたんだって。


 金武の観音堂は、首里よりも先にあったという話でね。喜名の観音様は金武の寺から勧請したそうだよ。


 そうして、旧暦の九月十八日、辛丑の十八夜に観音様を勧請してきたんだって。その観音様を喜名に勧請したちょうどその日に、後山内のお婆さんが生まれたそうなんだ。後山内のお婆さんも九十歳余りで亡くなったんだけどね、神様と同じ日に生まれたので、こんなに長生きされたという話だよ。


 観音様を金武の寺から、九月十八夜に勧請してきたので、それからは、九月十八夜に村の拝みが行なわれ、又、喜名では十九日に、老いも若きも揃って御祭をしたわけだよ。棒術や手踊りなどを披露して祝ったよ。観音様を勧請した日と、後山内のお婆さんが生まれた時のお祝いも、同じ旧暦九月十八日、辛丑の日だそうだ。


 その観音堂の女神様に、墨筆紙やヲゥーブシ(芭蕉糸)を供えて、子どもの健やかな成長を祈願するわけさ。墨筆紙を供えるのには「手習いや学問に優れさせてください」という意味があるわけだよ。また、女の子の場合には、「織物上手な子にしてください」との意味を込めてヲゥーブシを供えた。


 今のようにお金があれば買って着ることもできるが、昔はそうではないでしょう。全部自給自足だったので、自分で藍染めし、綛糸(かせいと)を準備して機織りしたからね。だから、そこの女神様には、家内繁盛や師弟の教育を祈願するわけさ。


 また、あの土帝君は男の神様であるわけさ。そこは農業の神様。働く者こそ食べ物にありつくことができるという意味だよ。この男神、つまり土帝君は、このように片手は鍬を担ぎ、片手には黄金を抱いている姿でね。働く人こそが黄金を抱くことができる。働かない人は、ずっと貧乏で、食いはぐれるという意味があるそうだよ、土帝君には。


 そういうことで、九月十八日は村の拝みで、十九日は字で拝んでいたのだがね。それももう、だんだんと簡略化されて、今ではもう、喜名では役員だけで拝むようになっているんだ。

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解説

戦前から瓦葺きの堂宇があり四周の壁は石積みで中には千手観音像を祀っていた。観音像は、1841年旧暦9月18日金武の観音寺から勧請されたといわれる。毎年旧暦9月18日には、読谷村主催で「観音堂ウガミ」が催され、村の繁栄と健康を祈願し、翌19日には喜名自治会が拝む。観音堂が所在する2班は独自で家族の健康祈願を行っている。近年、堂宇は改修され観音堂前広場も公園として再整備され、地域住民の憩いの場所となっている。(「喜名ガイドマップ」喜名の拝所、喜名観音堂)

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