くぬ観音堂ぬ、今お祀りしぇーる敷地ぇ、始まいや其処ぁ、喜名ぬヌン殿内ぬ百お爺んでぃる人ぬ、墓敷すんち、あぬ前ぬ窪地ぉ敷ち始みてーたんでぃ。
うぬヌン殿内ぬ百お爺んでぃる人ぬ、墓敷仕掛きとーしが、くれーまた黄金森んち、くんぐとーぬ山ぉ無んりる話てー、沖縄んかいあんちゅーか。後ぇ、あぬー、大ぎ山くさてぃさーに、くぬ森ぐゎーや、四方八方かんし溝ぬ廻とーるばーてー。
あんさーい、読谷村ぉ、是非、其処んかい、首里ん遠さい、金武ん遠さくとぅ、あがとぅー行ぢ拝でーならんくとぅ、でぃー其処んかい、御観音様うんちけーし来んでぃる事んかいなてぃさーに。
あんさーい、「あーあ、其処ぁ私が墓敷かくてーくとぅ、あんしぇーならん」ちゃくとぅ。うりから、「公儀とぅ一人とぅ争いないるばーい。ぃやーや公儀ねー負きれー」んち、あんさーに観音堂造たんでぃ。
うぬ観音堂や金武ぬ寺からうんちけーしっちゃんでぃ。やはり、首里ゆかんあれー先んりる話やさ金武ぉ。
あんしさくとぅ、丁度、九月十八夜、旧ぬ九月十八夜、辛丑ぬ日にうんちけーしっ来んでぃ。うぬ仏様うんちけーさる日とぅ、また後山内ぬお婆んち、うぬ人ん九十歳余てぃから年寄んそーちゃがやー。神とぅ一緒ん生まりてぃる、うさきーなー年ん拝でーみしぇーるんでぃる物語やしが。
うりから、九月十八夜に、うぬ神ぇ金武ぬ寺からうんちけーしっ来くとぅ、九月十八夜ぁ村ぬ拝み、また十九日ぇ喜名ぬ、なー老人若さ揃てぃ、其処んじお祀りやたるばーてー。棒使たい、手踊りしちゃい、舞踊。うぬ、後山内ぬお婆さんぬゥンバギー祝儀とぅ、くぬ観音堂ぬ仏様うんちけーさる日とぅ、丁度、九月十八夜、旧ぬ九月十八夜、辛丑ぬ日にうんちけーし来んでぃ。
うぬ観音堂ぬ女御神ぇ、童ん達が、生まりーる場や、「手墨学問優らちうたびんそーり」んち、あぬヲゥーブシとぅか、うりから、墨筆紙捧ぎてぃぬ、其処ぁ願望するばーてー。また女ぬ生まりーねー、あぬヲゥーブシとぅか捧ぎてぃぬ、「手花優らし者なちうたびんそーり」んち。
だー、昔ぇ、今ぬぐとぅ銭ぬ有れー買てぃ着らりーるむのーあらん、むる自給自足るやくとぅ。うぬ手花んでぃねー、くぬ着物ん自分くる藍染みてぃ、自分くる綛しこーてぃ機んかい織いてーくとぅ。あんさーにうぬ女御神ぇ、あぬ繁昌とぅか、うりから手墨学問、なー童ん達ぁ教育やるばーてー、くぬ女御神ぇ。
また、あぬ土帝君やまた男御神やるばーてー。其処ぁ、農業ぬ神。働きわる裕福に物ぉ食りいちゅるんち。うぬ人ぉ、土帝君やかんし、片手や鍬ぇ担みてぃ、片手やかんし黄金抱ちょーるばーてー。あんし、働ちゅる人ぬる黄金ぇ抱ちゆーする。働かん人ぉちゃー貧乏、食かんてぃーすんどーりる意味、あぬ土帝君や。
あんさーい、九月十八夜ぁ村拝み、また十九日ぇ字拝みやたしがよー。なー、今ぁ、うりんたったい廃止なてぃ、なー役員びかーんさーに、喜名んでー、其処ぁ拝むる事なとーしがよー。
観音堂の始まりの話ね。今、観音堂を祀ってある敷地はね、喜名のヌン殿内の百お爺さんが墓を造るために、前の窪地の地均しを始めていたそうだ。
ヌン殿内の百お爺さんが均しているその土地は、クガニムイ(黄金の丘)と呼ばれ、このような拝所は、沖縄にもそうそうないという話だよ。後方には敷地を抱くように林があり、四方八方は溝に囲まれているすばらしい丘でね。
それで、読谷山から観音様を拝みに行くのに、首里や金武までは遠すぎるので、村はぜひそこに観音様を勧請しようと決めたんだ。
当初、ヌン殿内の百お爺さんは「いや、それは困る。ここは私が墓を造るために準備しているので、それは出来ない」と断わった。けれども、「お役所と個人で争っても勝ち目はないよ、お前はお役所に譲ってやれ」といわれて、そこに観音堂が造られたんだって。
金武の観音堂は、首里よりも先にあったという話でね。喜名の観音様は金武の寺から勧請したそうだよ。
そうして、旧暦の九月十八日、辛丑の十八夜に観音様を勧請してきたんだって。その観音様を喜名に勧請したちょうどその日に、後山内のお婆さんが生まれたそうなんだ。後山内のお婆さんも九十歳余りで亡くなったんだけどね、神様と同じ日に生まれたので、こんなに長生きされたという話だよ。
観音様を金武の寺から、九月十八夜に勧請してきたので、それからは、九月十八夜に村の拝みが行なわれ、又、喜名では十九日に、老いも若きも揃って御祭をしたわけだよ。棒術や手踊りなどを披露して祝ったよ。観音様を勧請した日と、後山内のお婆さんが生まれた時のお祝いも、同じ旧暦九月十八日、辛丑の日だそうだ。
その観音堂の女神様に、墨筆紙やヲゥーブシ(芭蕉糸)を供えて、子どもの健やかな成長を祈願するわけさ。墨筆紙を供えるのには「手習いや学問に優れさせてください」という意味があるわけだよ。また、女の子の場合には、「織物上手な子にしてください」との意味を込めてヲゥーブシを供えた。
今のようにお金があれば買って着ることもできるが、昔はそうではないでしょう。全部自給自足だったので、自分で藍染めし、綛糸を準備して機織りしたからね。だから、そこの女神様には、家内繁盛や師弟の教育を祈願するわけさ。
また、あの土帝君は男の神様であるわけさ。そこは農業の神様。働く者こそ食べ物にありつくことができるという意味だよ。この男神、つまり土帝君は、このように片手は鍬を担ぎ、片手には黄金を抱いている姿でね。働く人こそが黄金を抱くことができる。働かない人は、ずっと貧乏で、食いはぐれるという意味があるそうだよ、土帝君には。
そういうことで、九月十八日は村の拝みで、十九日は字で拝んでいたのだがね。それももう、だんだんと簡略化されて、今ではもう、喜名では役員だけで拝むようになっているんだ。