読谷村しまくとぅば「むんがたい」

唐船グムイ とーしんぐむい

話者 山内清(1908・M41) 地域 長浜 時間 02:06
  • しまくとぅば
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 (とー)(しん)グムイぬ(はなし)ぃさびんどー。(とー)(しん)グムイぬ(はなし)んでぃしぇー、(むかし)護佐丸(ごさまる)山田(やまだ)(ぐしく)から座喜味(ざちみ)(ぐしく)んかい(うち)てぃもーちゃる時代(じだい)や、那覇港(なはんなとぅ)(でぃ)()らん、泊港(とぅまいんなとぅ)(ねー)らん。


 その場合(ばあい)支那(しな)(くに)ぇ、(ぅんかし)(とう)んでぃ()たしが、彼処(あま)から(やみ)(せん)()っち(っち)っ。長浜(ながはま)んでぃる(むら)支那(しな)(くに)からー大西洋(たいせいよう)彼処(あま)からー東海(あがりうみ)なたぐとぅやー、支那(しな)(くに)から。(ふね)(みっ)(こく)(せん)るやぐとぅ、帆前船(ほまいせん)(はい)るまま(ちゃ)ぐとぅ、長浜(ながはま)(うみ)んかい()ちゃるばー。()ちゃぐとぅ、うぬ唐船(とーしん)グムイすん(とぅくる)んかい、支那(しな)帆前船(ほまいせの)ぉうきてぃ。



 さぐとぅ、うぬ密国船(みっこくせん)から茶壺(ちゃーちぶ)とか、(みん)(がーみ)とか、味噌(んす)(がーみ)、あり()っち(ちゃ)ぐとぅ。だーうれー密国(みっこく)るやぐとぅ、自由(じゆう)ねー商売(しょうばい)やならん。それから、(ふね)唐船(とーしん)グムイに()きてぃ、長浜(ながはま)ぬメーヌヒラぬトーガーミーヤーという洞窟(がま)んかい(かじ)みとーてぃ、その支那(しな)から()って()焼物(やきもの)(かじ)みとーてぃ、闇売(やみう)いさるばー。


 そうして、その支那人(しなじん)商売(しょうばい)目的(もくてき)にし、(おも)(とお)りに商売(しょうばい)やさぐとぅ、支那(しな)んかい(けー)たんでぃ。あれは、(なま)唐船(とーしん)グムイという(いわ)はね、支那(しな)帆前船(ほまいせん)(かたち)



 やしが、私達(わったー)(じい)()時代(じだい)や、うぬ唐船(とーしん)グムイでぃしぇーやっ、十尋(じっぴる)二十尋(にじっぴる)(ふか)さぬ()たしが。この戦争(せんそう)()(なか)にアメリカ(じん)沖縄(おきなわ)んかい上陸(じょうりく)する(たみ)なかに、(はたけ)(やま)原野(げんや)()ちとーみたぐとぅ、(いー)からカスガー、バラスぬ(なが)りてぃ()っ、その二十尋(にじっぴる)(ふか)()たる唐船(とーしん)グムイや、(やま)(はたけ)から(なが)りてぃ(ちょー)る、この砂利(じゃり)ぬいっぱいさーに。


 (むかし)(なま)ぬお(じい)()学校(がっこう)時代(じだい)んでれー、彼処(あま)ってぃ(いー)じ、(しちゃ)んじうぬ(すな)(ちか)でぃ(ちゅー)(ちゅ)(をぅ)らんたしが、(なま)ぁなー(あっさ)くなてぃ。(なま)ぁ、(うす)()っちはいねー、ただ足首(ひさくび)()だする。

 唐船グムイの話をしますよ。昔、護佐丸が山田城から座喜味城に移られた頃、那覇港や泊港もまだなかった時代の話だよ。



 その当時、支那には唐と言っていたが、そこから闇船が長浜の港に入ってきたんだって。長浜は支那からすると、大西洋の東の方に位置しているので、そこからの密国船、帆前船が着いたのが長浜の海だった。それで、支那の帆前船が着いたということで、そこは唐船グムイと呼ばれるようになったわけだ。


 支那人はこの密国船から、茶壺や耳のついた(かめ)、味噌甕などを持って来た。だが、それは密売品なので、自由には商売できない。それで、船は唐船グムイに着けて、長浜のメーヌヒラ((めー)ヌヒラ)にある、トーガーミーヤーという洞窟に品物を隠して闇売りしたわけさ。


 そうして、商売を目的として沖縄にやってきた支那人は、それがうまくいったので、しばらくして支那に帰って行ったんだって。あの唐船グムイにある岩は、支那の帆前船の形をしている。


 私らが若い頃には、その唐船グムイというのは、十尋から二十尋の深さがあったんだがね。去る戦争の時、米軍が沖縄に上陸し、畑や山、それに原野も全て敷き均してしまった。その時、二十尋もあった唐船グムイに、たくさんの砂利が流れ込んでしまったんだ。




 私らが若かった頃は、あそこで泳いで、海底の砂を掴める人はいないほど深かったけど、今はもう浅くなっている。今では、潮が引くと、足首が濡れるぐらいの深さしかない。

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解説

トーシン(唐船)シー(岩)。グムイは陸地の沼や池の意だが、ここでは潮だまりを意味する。南蛮貿易で長浜港が賑わった頃、貿易船がこの岩に船を繋いだと言い伝えられている。現在では、特に戦後の米軍による土砂採取や、6号線沿いの防波堤建設によって、長浜の名前の由来の美しい砂浜は無くなり、その反面海底に土砂が溜まり、現状のような浅い海になってしまった。そのためそうした時代の面影はなくなってしまっている。(「長浜ガイドマップ」長浜の名所・旧跡、トーシンシー、トーシングムイ)

※恩納村方面バス停から海岸を望むと前方に見える岩がトーシンシー(唐船岩)でその辺りが唐船グムイ

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