唐船グムイぬ話ぃさびんどー。唐船グムイぬ話んでぃしぇー、昔、護佐丸ぬ山田城から座喜味城んかい移てぃもーちゃる時代や、那覇港ん出来らん、泊港ん無らん。
その場合に支那ぬ国ぇ、昔ぇ唐んでぃ言たしが、彼処から闇船ぬ入っち来っ。長浜んでぃる村ぁ支那ぬ国からー大西洋、彼処からー東海なたぐとぅやー、支那ぬ国から。船ぇ密国船るやぐとぅ、帆前船、入るまま来ぐとぅ、長浜海んかい着ちゃるばー。着ちゃぐとぅ、うぬ唐船グムイすん所んかい、支那の帆前船ぉうきてぃ。
さぐとぅ、うぬ密国船から茶壺とか、耳甕とか、味噌甕、あり持っち来ぐとぅ。だーうれー密国るやぐとぅ、自由ねー商売やならん。それから、船は唐船グムイに着きてぃ、長浜ぬメーヌヒラぬトーガーミーヤーという洞窟んかい隠みとーてぃ、その支那から持って来た焼物隠みとーてぃ、闇売いさるばー。
そうして、その支那人は商売を目的にし、思う通りに商売やさぐとぅ、支那んかい帰たんでぃ。あれは、今、唐船グムイという岩はね、支那ぬ帆前船の形。
やしが、私達お爺達ぁ時代や、うぬ唐船グムイでぃしぇーやっ、十尋ん二十尋ん深さぬ有たしが。この戦争ぬ世ぬ中にアメリカ人が沖縄んかい上陸する為なかに、畑ん山ん原野ん敷ちとーみたぐとぅ、上からカスガー、バラスぬ流りてぃ来っ、その二十尋ん深さ有たる唐船グムイや、山や畑から流りてぃ来る、この砂利ぬいっぱいさーに。
昔、今ぬお爺達ぁ学校時代んでれー、彼処ってぃ泳じ、下んじうぬ砂掴でぃ来る人ぉ居らんたしが、今ぁなー浅くなてぃ。今ぁ、潮ぬ引っちはいねー、ただ足首る濡だする。
唐船グムイの話をしますよ。昔、護佐丸が山田城から座喜味城に移られた頃、那覇港や泊港もまだなかった時代の話だよ。
その当時、支那には唐と言っていたが、そこから闇船が長浜の港に入ってきたんだって。長浜は支那からすると、大西洋の東の方に位置しているので、そこからの密国船、帆前船が着いたのが長浜の海だった。それで、支那の帆前船が着いたということで、そこは唐船グムイと呼ばれるようになったわけだ。
支那人はこの密国船から、茶壺や耳のついた甕、味噌甕などを持って来た。だが、それは密売品なので、自由には商売できない。それで、船は唐船グムイに着けて、長浜のメーヌヒラ(前ヌヒラ)にある、トーガーミーヤーという洞窟に品物を隠して闇売りしたわけさ。
そうして、商売を目的として沖縄にやってきた支那人は、それがうまくいったので、しばらくして支那に帰って行ったんだって。あの唐船グムイにある岩は、支那の帆前船の形をしている。
私らが若い頃には、その唐船グムイというのは、十尋から二十尋の深さがあったんだがね。去る戦争の時、米軍が沖縄に上陸し、畑や山、それに原野も全て敷き均してしまった。その時、二十尋もあった唐船グムイに、たくさんの砂利が流れ込んでしまったんだ。
私らが若かった頃は、あそこで泳いで、海底の砂を掴める人はいないほど深かったけど、今はもう浅くなっている。今では、潮が引くと、足首が濡れるぐらいの深さしかない。