自分達が小さる時分、つまり十一、二ぬ頃までぃ鍬へーちゃい、箆へーちゃい、或いやナービヌナクーさい、此処をぅとーてぃ気張いみしぇーたしが。
此処んかい、いめんそーちゃる親祖先や、首里から鞴道具担みてぃいめんそーち。メーヌヒラをぅとーてぃ暑さいに憩とーみしぇーる場合に、仲殿内ぬ親祖先んかい、「何処んかい通いが、二才」でぃ言やでぃみそーちゃぐとぅ、「なー、何処でぃちん当てぃん無らん、自分ぬ泊まいん所んかい落てぃ着けーやーでぃ思やびん」でぃうんぬきたぐとぅ。仲殿内ぬ親祖先ぬ言みしぇーるくとぅぬ、「あんるんやれー、当てぃ無しに彼処くま歩っちんならんむん、くぬシマをぅとーてぃ留まてぃないるむんるんやれー、業んすしぇーましぇーあらに」んでぃぬ事なたぐとぅ。
くぬナービナクーん、仲殿内ぬ言みしぇーる言葉守てぃ、くぬシマんかい留まんそーち、今に残とーるカンジャーヤー、此処をぅとーてぃ業気張いみそーちゃしが、長浜をぅとーてぃぬカンジャーぬ始まい。
くぬ親祖先や、今、宮城んでぃぬ名ぁ貰てぃ、其処をぅとーてぃうみはまいみそーちゃんでぃぬ事し。カンジャーヤーや近頃んまでぃ自分達がゆー覚とーる事やしが。鍬、箆へーひんそーちゃい、ナービナクーさい、また其処をぅとーてぃナービナクーから落てぃーる金屑ぐゎー、自分達ん貰てぃ福たる場合んあい。くぬカンジャーヤーから長浜ぬ百姓ぬ使いる鍬、箆、優り物ぬ出じてぃさんりる話ん今に残とーる次第。
去じゃる戦争ぬ場合や、くぬ洞窟をぅとーてぃ避難しみそーち、うれー村半分、北ぬ方やくぬ洞窟をぅとーてぃ戦争ぬ場合ぬ命助かいみそーちゃんでぃる事。戦争ぬ終結ぬ場合にやてぃん恐るさし、此処から出じみそーらん。二、三人ぉ其処をぅとーてぃ毒ガス投ぎらりやーい、世ぅ滅びんそーちゃんでぃぬ人んいめんしぇーんでんでぃぬ話。
私らが十一、二歳の頃までは、長浜にも鍬や箆を研いだり、鍋の修繕をする鍛冶屋があったんだがね。
長浜にいらした鍛冶屋の祖先は、首里から鍛冶道具を担いでいらしたそうだ。その途中、暑かったので長浜のメーヌヒラ(前ヌヒラ)で休んでいたら、仲殿内の人に、「どこに行くのか若者よ!」と声をかけられた。その人は、「もう、どこに行くあてもありません。泊まれる所でもあればそこに落ちつきたいと思うのですが」と答えたそうだ。すると、仲殿内の人に「当てもなくあちこち歩くより、この村に留まって仕事でもした方が良いのではないか」と言われた。
この人は仲殿内に言われた通り、長浜に落ち着いて鍛冶仕事に励んだ。これが長浜での鍛冶屋の始まりである。
その鍛冶屋は、宮城という名を貰って長浜で頑張ったというわけだ。鍛冶屋では最近まで、鍬や箆を研いだり、鍋の修繕をしていたことを、私もよく覚えている。また、それらを修理する時に落ちる金屑を貰って、喜んだこともあった。そこの鍛冶屋で、長浜の百姓が使う鍬や箆など、優れた物が作られたという話が今に伝えられているわけです。
数が、そのカンジャーガマ(鍛冶作業をしていた洞窟)へ避難して命拾いをしたということだ。終戦になっても外に出るのを恐がって洞窟に残った人もいた。それで、毒ガスを投げこまれて、二、三人亡くなったという話だ。