読谷村しまくとぅば「むんがたい」

カンジャーヤーの始まり かんじゃーやーのはじまり

話者 長浜真一(1910・M43) 地域 長浜 時間 02:33
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 自分(どぅー)(なー)(くー)さる時分(じぶん)、つまり十一(じゅういち)(にー)(くる)までぃ(くぇー)へーちゃい、(ひーら)へーちゃい、(ある)いやナービヌナクーさい、此処(くま)をぅとーてぃ気張(ちば)いみしぇーたしが。


 此処(くま)んかい、いめんそーちゃる親祖先(うやふじー)や、首里(すい)から鞴道具(ふーちどーぐ)(かた)みてぃいめんそーち。メーヌヒラをぅとーてぃ(あち)さいに(ゆっく)とーみしぇーる場合(ばあい)に、仲殿内(なーかんとぅぬち)親祖先(うやふじー)んかい、「何処(まー)んかい(とぅー)いが、二才(にーしぇー)」でぃ()やでぃみそーちゃぐとぅ、「なー、何処(まー)でぃちん()てぃん(ねー)らん、自分(どぅー)(とぅ)まいん(とぅくる)んかい()てぃ()けーやーでぃ(うむ)やびん」でぃうんぬきたぐとぅ。仲殿内(なーかんとぅぬち)親祖先(うやふじー)()みしぇーるくとぅぬ、「あんるんやれー、()てぃ()しに彼処(あま)くま()っちんならんむん、くぬシマをぅとーてぃ(とぅる)まてぃないるむんるんやれー、(わじゃ)んすしぇーましぇーあらに」んでぃぬ(くとぅ)なたぐとぅ。


 くぬナービナクーん、仲殿内(なーかんとぅぬち)()みしぇーる言葉(いくとぅば)(まむ)てぃ、くぬシマんかい(とぅる)まんそーち、(なま)(ぬく)とーるカンジャーヤー、此処(くま)をぅとーてぃ(わじゃ)気張(ちば)いみそーちゃしが、長浜(ながはま)をぅとーてぃぬカンジャーぬ(はじ)まい。


 くぬ親祖先(うやふじー)や、(なま)宮城(なーぐしく)んでぃぬ()(ゐー)てぃ、其処(ぅんま)をぅとーてぃうみはまいみそーちゃんでぃぬ(くとぅ)し。カンジャーヤーや近頃(ちかぐる)んまでぃ自分(どぅー)(なー)がゆー(うび)とーる(くとぅ)やしが。(くぇー)(ひーら)へーひんそーちゃい、ナービナクーさい、また其処(ぅんま)をぅとーてぃナービナクーから()てぃーる金屑(かにじり)ぐゎー、自分(どぅー)(なー)(ゐー)てぃ(ふく)たる場合(ばす)んあい。くぬカンジャーヤーから長浜(ながはま)百姓(ひゃくそー)使(ちか)いる(くぇー)(ひーら)(すぐ)(むん)(ぅん)じてぃさんりる(いはなし)(なま)(ぬく)とーる次第(しでー)


 (ぅん)じゃる戦争(いくさ)場合(ばす)や、くぬ洞窟(がま)をぅとーてぃ避難(ひなん)しみそーち、うれー(むら)半分(はんぶん)(にし)(ほう)やくぬ洞窟(がま)をぅとーてぃ戦争(いくさ)場合(ばあい)(いぬち)(たし)かいみそーちゃんでぃる(くとぅ)戦争(いくさ)終結(しゅうけつ)場合(ばあい)にやてぃん(うとぅ)るさし、此処(くま)から(ぅん)じみそーらん。()三人(さんにの)其処(ぅんま)をぅとーてぃ(どく)ガス()ぎらりやーい、()(ふる)びんそーちゃんでぃぬ(ちゅ)んいめんしぇーんでんでぃぬ(はなし)


 私らが十一、二歳の頃までは、長浜にも鍬や(へら)を研いだり、鍋の修繕をする鍛冶屋があったんだがね。


 長浜にいらした鍛冶屋の祖先は、首里から鍛冶道具を担いでいらしたそうだ。その途中、暑かったので長浜のメーヌヒラ((めー)ヌヒラ)で休んでいたら、仲殿内の人に、「どこに行くのか若者よ!」と声をかけられた。その人は、「もう、どこに行くあてもありません。泊まれる所でもあればそこに落ちつきたいと思うのですが」と答えたそうだ。すると、仲殿内の人に「当てもなくあちこち歩くより、この村に留まって仕事でもした方が良いのではないか」と言われた。


 


 この人は仲殿内に言われた通り、長浜に落ち着いて鍛冶仕事に励んだ。これが長浜での鍛冶屋の始まりである。


 その鍛冶屋は、宮城という名を貰って長浜で頑張ったというわけだ。鍛冶屋では最近まで、鍬や箆を研いだり、鍋の修繕をしていたことを、私もよく覚えている。また、それらを修理する時に落ちる金屑を貰って、喜んだこともあった。そこの鍛冶屋で、長浜の百姓が使う鍬や箆など、優れた物が作られたという話が今に伝えられているわけです。



 数が、そのカンジャーガマ(鍛冶作業をしていた洞窟)へ避難して命拾いをしたということだ。終戦になっても外に出るのを恐がって洞窟に残った人もいた。それで、毒ガスを投げこまれて、二、三人亡くなったという話だ。

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解説

米軍上陸時、村内に残った字の人々は主に集落内にあるカンジャーヤーガマと、集落はずれのウフガマに避難した。ウフガマに避難した人は全員無事だったが、カンジャーヤーガマでは数人の犠牲者が出た。ガマから保護された人たちは10~20日ほどは長浜に居住でき、その間は麦刈りや田植えなども行ったという。(「長浜ガイドマップ」長浜の戦跡と戦後の米軍基地)

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