昔ぇ残波や馬場やたんでぃー。馬場造らっとーたんよー、上ぬあぬー、下ぬはらー個人ぬ所有地、原野とぅか林野在たるばーやしが。
其処んかい馬場ぁ、かんし大概東から西までぃんでぃねー相当ぬ長さ有しが。其処んかい馬場ないん所ぬ二箇所かんし造らってぃ在たんよー。私達がうりそー、在たしが。其処ぁなー何ん植らんなー、やっぱし昔ぇ馬走らさん場ねー、牛引んち行ぢ、牛其処んじ括ち飼らたい、牛飼れーモーっし。馬場ぁ草ぁ生てーぐとぅうりやしが。
うぬ馬場や初め造たいねー、上等な馬具んかんし掛きーまま、馬ぬ悪な馬なやーに、横走りさーに、岬ぬ崖んかい馬具しーてぃーかんしけー落てぃたんでぃよー。あんさぐとぅなー、残波や切り上ぎやーに、渡慶次ぬカタノー、カタノーっち造たんでぃー、馬場カタノーんかいなたんでぃ。
必じ六月二十五日ねー、彼処、馬場やてーるばーてー。また、楚辺ガニクぉ四月アブシバレー、楚辺ガニク馬場。読谷んかいや馬場や喜名ぬ、今ぬ県道なとーん所よー、彼処ん馬場やたんよー、役所ぬ前や。原勝負とぅか何ぬんち有いねー、彼処をぅてぃ馬ん走らすい、うりやたるばーてー。大ぎさしぇー広っぱやぐとぅ、うりん。
此処ぬ渡慶次ぬカタノーや二十五日ぇ必じうりやたるばー、二十五日ぇ何処からん来たんよー。楚辺ガニクぉまた四月アブシバレー、此処ぁ六月二十五日、村ぬ前やまたうるばー原勝負とぅか何ぬんち有いねー、馬ん集みてぃうり有たんよ。
くぬ日露戦争ぬ場に旅順陥落さる場にんれーや、揃や役所んかいやたしが、各字提灯行列から旗行列までぃ、すぐあぬ馬場かんしまん廻るー巻ちし、其処をぅてい銃剣術兵隊ん達が使たい何さいし、うすましい事やたんどー。あんし、うれー終ちなちから夜ぉまた長浜んかい、かんし、村中、各字廻い提灯行列、日露戦争ぬ場。
昔は、残波の上の方に馬場があって、下の方は個人の所有地で原野や林野だった。
そこに馬場は造られて、東から西までは相当な距離があった。その広場に馬場が二か所造られていたよ。私らも記憶にあるがね。そこは何も植えられなかったので、昔は競馬がない時には、牛や馬を引いて行き、そこで括って飼ったりして、牛や馬を飼う広場としても使っていた。馬場には草は生えていたからね。
残波にあった馬場では、扱いにくい馬は上等な馬具をかけたまま脇道にそれて、そのまま崖から馬具もろとも落ちたそうだ。そういうこともあって、残波の馬場から渡慶次の潟野へ場所を移して、馬場を造ったということだ。
毎年、六月二十五日には渡慶次の馬場で、また、楚辺兼久の馬場では四月アブシバレー(畦払い)に競馬が行われていた。読谷には他に喜名の役所前(戦前)にも馬場があった。原勝負とか何か行事があると、そこの大きな広場で競馬が行われていた。
渡慶次の潟野で六月二十五日に行われる競馬には、遠くからも見物人が来たよ。また、楚辺兼久は四月アブシバレー、渡慶次は六月二十五日、喜名は原勝負などに、競馬をしていたんだよ。
また、日露戦争に旅順陥落した時などは、役場に集まったが、そこから各字から出て提灯行列や旗行列、馬場の周囲を囲んで、そこで兵隊が銃剣術を使ったりして、とても賑わっていた。そして、それが終わると夜は長浜に廻って、村中、各字を廻って提灯行列をしていたさ、日露戦争の時には。