読谷村しまくとぅば「むんがたい」

読谷の馬場 よみたんのばば

話者 福地蔡良(1894・M27) 地域 渡慶次 時間 02:48
  • しまくとぅば
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 (ぅんかし)残波(ざんぱ)馬場(ぅんまば)やたんでぃー。馬場(ぅんまば)(ちゅく)らっとーたんよー、(いー)ぬあぬー、(しちゃ)ぬはらー個人(こじん)所有地(しょゆうち)原野(げんや)とぅか林野(りんや)()たるばーやしが。


 其処(ぅんま)んかい馬場(ぅんまば)ぁ、かんし大概(てーげー)(あがり)から西(いり)までぃんでぃねー相当(そうとう)(なが)()しが。其処(ぅんま)んかい馬場(ぅんまば)ないん(とぅくる)二箇所(たとぅくる)かんし(ちゅく)らってぃ()たんよー。私達(わったー)がうりそー、()たしが。其処(ぅんま)ぁなー(ぬー)(うぃー)らんなー、やっぱし(ぅんかし)(ぅんま)()らさん(ばー)ねー、(うし)()んち(ぅん)ぢ、(うし)其処(ぅんま)んじ(くん)()らたい、(うし)()れーモーっし。馬場(ぅんまば)(くさ)(みー)てーぐとぅうりやしが。


 うぬ馬場(ぅんまば)(はじ)(ちゅく)たいねー、上等(じょうとう)馬具(ばぐ)んかんし()きーまま、(ぅんま)()(ぅんま)なやーに、(ゆく)()りさーに、(みさき)(はんた)んかい馬具(ばぐ)しーてぃーかんしけー()てぃたんでぃよー。あんさぐとぅなー、残波(ざんぱ)()()ぎやーに、渡慶次(とぅきし)ぬカタノー、カタノーっち(ちゅく)たんでぃー、馬場(ぅんまば)カタノーんかいなたんでぃ。


 (かんな)六月(ろくがつ)二十五日(にじゅうごにち)ねー、彼処(あま)馬場(ぅんまば)やてーるばーてー。また、楚辺(すび)ガニクぉ四月(しんぐゎち)アブシバレー、楚辺(すび)ガニク馬場(ぅんまば)読谷(よみたぬ)んかいや馬場(ぅんまば)喜名(ちなー)ぬ、(なま)県道(けんどう)なとーん(とぅくる)よー、彼処(あま)馬場(ぅんまば)やたんよー、役所(やくそ)(めー)や。原勝負(はるしょーぶ)とぅか(ぬー)ぬんち()いねー、彼処(あま)をぅてぃ(ぅんま)()らすい、うりやたるばーてー。()ぎさしぇー(ひろ)っぱやぐとぅ、うりん。


 此処(くま)渡慶次(とぅきし)ぬカタノーや二十五日(にじゅうごにち)(かんな)じうりやたるばー、二十五日(にじゅうごにち)何処(まー)からん(ちゅー)たんよー。楚辺(すび)ガニクぉまた四月(しんぐゎち)アブシバレー、此処(くま)六月(ろくがつ)二十五日(にじゅうごにち)(そん)(めー)やまたうるばー原勝負(はるしょーぶ)とぅか(ぬー)ぬんち()いねー、(ぅんま)(あち)みてぃうり()たんよ。


 くぬ日露(にちろ)戦争(せんそう)(ばー)旅順(りょじゅん)陥落(かんらく)さる(ばー)にんれーや、(すりー)役所(やくしょ)んかいやたしが、各字(かくあざ)提灯(ちょうちん)行列(ぎょうれつ)から(はた)行列(ぎょうれつ)までぃ、すぐあぬ馬場(ぅんまば)かんしまん(まー)るー()ちし、其処(うま)をぅてい銃剣術(じゅうけんじゅつ)兵隊(ひーたい)(ちゃー)使(ちか)たい(ぬー)さいし、うすましい(くとぅ)やたんどー。あんし、うれー()ちなちから(ゆーる)ぉまた長浜(ながはま)んかい、かんし、村中(そんじゅう)各字(かくあざ)(みぐ)提灯(ちょうちん)行列(ぎょうれつ)日露(にちろ)戦争(せんそう)(ばー)

 昔は、残波の上の方に馬場があって、下の方は個人の所有地で原野や林野だった。



 そこに馬場は造られて、東から西までは相当な距離があった。その広場に馬場が二か所造られていたよ。私らも記憶にあるがね。そこは何も植えられなかったので、昔は競馬がない時には、牛や馬を引いて行き、そこで括って飼ったりして、牛や馬を飼う広場としても使っていた。馬場には草は生えていたからね。


 残波にあった馬場では、扱いにくい馬は上等な馬具をかけたまま脇道にそれて、そのまま崖から馬具もろとも落ちたそうだ。そういうこともあって、残波の馬場から渡慶次の(かた)(のー)へ場所を移して、馬場を造ったということだ。



 毎年、六月二十五日には渡慶次の馬場で、また、楚辺兼久(すびがにく)の馬場では四月(しんぐゎち)アブシバレー(畦払い)に競馬が行われていた。読谷には他に喜名の役所前(戦前)にも馬場があった。原勝負とか何か行事があると、そこの大きな広場で競馬が行われていた。




 渡慶次の潟野で六月二十五日に行われる競馬には、遠くからも見物人が来たよ。また、楚辺兼久は四月アブシバレー、渡慶次は六月二十五日、喜名は原勝負などに、競馬をしていたんだよ。



 また、日露戦争に旅順陥落した時などは、役場に集まったが、そこから各字から出て提灯行列や旗行列、馬場の周囲を囲んで、そこで兵隊が銃剣術を使ったりして、とても賑わっていた。そして、それが終わると夜は長浜に廻って、村中、各字を廻って提灯行列をしていたさ、日露戦争の時には。

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解説

首里から来た役人が残波岬で狩猟をする際、渡慶次の屋号名嘉を休息所とし、乗馬の稽古をしたことが渡慶次潟野馬場の由来とされる。毎年旧6月25、26日は、飾りづけた乗馬(ヌイウマ)が各地から集まった。各家庭ではカタノージン(晴着)や重箱を用意し楽しんだ。ンマスーブ(馬勝負)が終わると、その場で角力大会が始まった。角力大会は現在も、旧6月25日前後の日曜日に青年会主催で行われる。カタノー馬場の跡地に石碑を建立した。(「渡慶次ガイドマップ」渡慶次の名所・旧跡、「カタノー馬場跡」の石碑)

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