読谷村しまくとぅば「むんがたい」

座喜味城と東上地の粟上納 ざきみじょうとあがりいーちのあわじょうのう

話者 比嘉徳太郎(1892・M25) 地域 高志保 時間 01:46
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 座喜味城(ざきみじょう)ややーさい、山田(やまだ)から座喜味城(ざきみじょう)(ちゅく)りわるないるでぃち、彼処(あま)っち(ぐしく)(ちゅく)りわるないるりち(ちゅく)たぐとぅやー。その(とき)王様(おうさま)ぁ、くぬ(わっ)たー波平(はんじゃ)()()ぐゎーぬ、其処(ぅんま)にかいイトゥカグシクでぃち()んよー。



 その(とき)王様(おうさま)各所(かっくくる)から、かんし徴用(ちょうよう)()でぃ、(ぐしく)落成(らくせい)なたしが、()まする(むん)(ねー)らん。くぬ配給(はいきゅう)()ますしが(ねー)らん、うるっさ()にあらしーやたんでぃ。なー()みわる()ちかりーさやー。


 チブガマーから瀬名波(しなは)ガーんかい、むるチビチリんかい、(ちゅ)(ふに)ぇよー、うにーにんぬ徴用(ちょうよう)臣下(しんか)やたんでぃ。あいぐる、くぬチビチリんでーやたんてーん、俎板(まるちゃ)ぐゎーん()たい、包丁(ほーちゃー)ぐゎーん()たんでぃる(はなし)。うぬ(とぅち)ぬくぬ徴用(ちょうよう)臣下(しんか)ぬなー(けー)ゆーさん、()じょーしん(ちゃー)が、くぬ長浜(ながはん)(ばる)(しー)(しちゃ)ん、むる(ちゅ)(ふに)るやさやー。



 座喜味(ざきみ)(ぐしく)落成(らくせい)なとーしが、護佐丸(ぐさまる)其処(ぅんま)んかい()みいそーらん。あれー是非(じひ)中城(なかぐしく)んかい(ちとぅ)みしみりわるないるでぃぬ、護佐丸(ぐさまる)中城(なかぐしく)んかいめんそーちゃぐとぅ。座喜味(だちみ)(じょう)座喜味(ざきみ)大主(うふぬし)でぃしんかい(さじゃ)きやーい、護佐丸(ぐさまる)中城(なかぐしく)んかいめんそーちゃんでぃぬ(はなしー)


 さぐとぅ、座喜味(だちみ)東上地(あがりうぃーち)(あわ)(だーら)ふとぅちんそーやーい、うぬ(ぐしく)広場(ひろっぱ)やん(とぅくる)んかい、むる(あわ)()(ほー)てぃ。うぬ(あわ)出来(でぃき)たぐとぅ、()ちちょーるうっさー、うぬ(あわ)(めー)さーに(ぬち)()ちち。


 ()ちちょーるうっさんかい配給(はいきゅう)()ましんそーやーい。あんさーい、「ウートートゥ、東上地(あがりいーち)金持(いぇーき)世代(ゆーでー)うんぐとぅーらしんそーり」でぃち。(なま)ちきてぃ東上地(あがりうぃーち)金持(いぇーき)(ちゅ)やんどー、座喜味(ざちみ)東上地(あがりいーち)よ。

 座喜味城はですね、山田にいた城主が座喜味に移るために築城したそうだがね。築城の間、波平のバス停近くに仮住まいしていたということで、そこは一時の城という意味のイットゥカグシクと呼ばれているよ。


 築城の際には、各地から人夫を徴用して城は完成させたが、食糧がなかった。人夫たちに配給する食べ物がなく、多くの人が次々と死んでいったそうだ。もう食べないと生きていけないでしょう。


 チブガマから瀬名波ガー一帯や、チビチリにある人骨はね、その当時の徴用された人夫たちだそうだ。ほらその、チビチリには、まな板や包丁が残っていたという話だよ。その時に徴用された人たちが国元へ帰ることができずに死んで、長浜原の岩下はその人骨でいっぱいだった。


 座喜味城は完成したが、護佐丸はそこにはお住みにならなかった。護佐丸には是非中城を守ってもらいたいということで、中城へ移って行かれたそうだ。それで、座喜味城は座喜味大主という方に譲ったという話である。


 座喜味城が座喜味大主に譲られてから、東上地が粟俵を解いて、座喜味城の広場に残らず播いた。その粟が実ったので、生き残っていた人たちは、その粟飯で命拾いをしたようだ。



 残っている皆に、粟飯を配給してあげてね。それで、人々は「ウートートゥ、東上地の富がいつまでも続きますように」と感謝したそうだ。今でも東上地は金持ちだよ、座喜味の東上地よ。

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解説

一時城とも書く。その由来は諸説あるが、座喜味城築城のおり護佐丸が一時的にここに城を構えていたことからその名がついたともいわれる。以前はこんもりした丘であった。(「波平ガイドマップ」波平の名所・旧跡、イットゥカグシク)

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