読谷村しまくとぅば「むんがたい」

ミンティラの由来 みんてぃらのゆらい

話者 比嘉徳太郎(1892・M25) 地域 高志保 時間 01:59
  • しまくとぅば
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 久米(くみ)(じま)ぬヌールぬサングヮナーし、(ふに)()してぃ(なが)さってーるぐとーびんよー。


 あんさくとぅ、仲門(なかじょー)親方(いぇーかた)(ちゅ)りしーがめんそーちょーしあたてぃ。彼処(あま)んかい前寺(みんてぃら)でぃちえびんよー、うぬ(ちゅ)ぉ、(ふに)から久米(くみ)(じま)ヌールぉ(ふぃ)()ぎてぃ(ゐん)(むす)でぃ。



 うぬミンティラりち彼処(あま)んかい、大概(てーげー)三百(さんびゃく)(ちぶ)びかーじ(わっ)たーが二才(にーしぇー)ぐゎーそーいねー、(なま)ぬバラ飛行場(ひこうじょう)(なか)てーさい。あんさーい、其処(ぅんま)んかい松林(まーちゅー)ぬ、モーぬ()いびん。其処(ぅんま)んかい(そー)てぃめんそーやーい、とにかく(ゐの)(むす)りんしぇーるちむやびんてー。


 あんされー、久米(くみ)(じま)(くに)ぬフダミかかたぐとぅ、是非(じふぃ)あぬヌールぉうんちけーさんねー、(むら)()いくとーさんでぃぬふーじーなたぐとぅ。あんされー、彼処(あま)から(ちゃ)ぐとぅよーさい、馬艦(まーらん)ぬみー(じん)()(ちー)るんさー(そー)らすさでぃくとぅ。いんねーすんねー、久米(くみ)(じま)から馬艦(まーらん)ぬみー(じの)()(ちぇー)るふーじやびんてー。あんさぐとぅ、(そー)らっち()らちゃぐとぅ。


 彼処(あま)から御通(うとぅー)しする(ふぃ)(かん)や、うぬふーじーし香炉(こうろ)(ちゅく)やーい其処(ぅんま)んかい。御香(うこ)()てぃたい(ぬー)さいするありが、(かく)御願所(うがんじゅ)御願所(うがんじゅ)()いびしぇーやー。うり(みー)(なま)(みー)()いやさびんよー。やぐとぅ、うりから御通(うとぅー)し、久米(くみ)(じま)んかいぬ御通(うとぅー)し。


 (わっ)たーん(くー)さる(えーか)(くー)(がな)さし、風邪(かじ)ぐゎー()ちょーいにん、彼処(あま)んじウートートゥ、「何相(ぬーそー)(わらび)ぬちゃーさびーぐとぅ・・」でぃち、うぬうさぎり、うり精神(せいしん)ぬうりやんてーさい。うぬ久米(くみ)(じま)ヌールやれーうれー(のー)しゆんすんなー、でぃぬ。


 クシディラ、ミンティラでぃち、クシディラー(むら)(くし)(なま)ぁアカムヤー書物(すむちー)たー()かんまーるぬ此処(くま)にかい、だてーんぬグーフーぬ()いびさ。()其処(ぅんま)ぁ、其処(ぅんま)(ぬー)ん・・。

 久米島のノロが浮気をしたので、船に乗せられて流されたようだね。


 そうしたら、仲門親方が釣りに行ったところに、流れ着いた。そこは前寺と呼んでいるところね。仲門親方は久米島のノロを船から降ろして、二人はそこで縁を結んだ。


 そのミンティラ(前ヌ寺)は約三百坪ほどで、今のボーローポイント飛行場内にあった。私らの青年時代、そこには松林や野原もあった。そうして、仲門親方はそこに久米島ノロを連れて来て縁を結んだそうだ。


 そしたら、久米島で、ノロを追い出したことは、村のためにならないので、是非そのノロを連れ戻さなければいけないということになったようだ。そうして、久米島から迎えに来たらね、馬艦船一杯のお金を持って来るのであれば、帰してもいいということだった。すると、さっそく馬艦船一杯のお金を持って来たので、ノロは久米島へ帰したそうだ。


 その後、久米島へ遥拝する火ヌ神をミンティラに作った。線香を立て願い事をする香炉が各拝所にあるでしょう。それが三か所、今でも三か所ありますよ。そこから久米島へ祈願をした。


 私らが小さい頃は大切にされて、風邪をひいたときでもミンティラに、「〇〇相の子どもが〇〇ですので・・ウートートゥ」と願っていた。気持ち的にも落ち着いて、久米島ノロであればそれを治してくれるだろうと思ったんでしょうね。


 クシディラ、ミンティラとあるが、クシディラは村の後方のアカムヤーにある易者の家近く、小高いところにあるよ。そこの話は知らないなあ。

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解説

前ヌ寺は喜名観音堂と同性格のものとされ、健康祈願や家内安全を祈願する。ミンティラマーチュウと呼ばれた松並木があったが、沖縄戦で焼失した。西部連道土地改良事業により、現在の場所へ移設された。(「渡慶次ガイドマップ」渡慶次の祭祀、前ヌ寺(ミンティラ))

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