昔ぬ親志や、廃藩ぬ世に首里から安勢理殿内とぅ永山殿内、うん人達が親志んかい下りてぃめんそーやーに、開墾あきてーるばーて。開きてぃさくとぅ、うにーから一人一人、全部首里から来い、彼処からん、其処からん取合いジマやるばーて。
あんすぐとぅ、山ぬ中にん何処にんきーにん家ぁ在てぃ。早こー開墾、多幸山んりたんでぃ、親志ぇど。一人、一人かんし集まいしんでー、「くれー多幸山とぅか開墾でぃ言ちぇーならんむん。でぃ、何がなぬ、うり付きら」んでぃ言ちさくとぅ。今度ぉくぬ永山殿内、安勢理殿内ぬくぬうりがてー、親の志、親志んでぃち付きてぃ。
戦前ぬ親志ぇ、「ぃやー、何処ん人が?」でぃねーよー、「親志やいびん」でぃれー絶対分からん、「多幸山」でぃねー分かいたん。「多幸山やいびん」でぃねー、「えー、彼処なー」でぃ言たぬばー。今る、「親志、親志」する。
あんさーにまた、親志んかい土帝君んち在しぇーやー。うりんジャーラんでぃちぬ山ぬ在んよーやー。其処からかんし、ジャーガル土、あり握りめんそーやーなかい、其処かい。あんさーに、土帝君、海とぅ山とぅ、土帝君やんでぃる、あぬうり、唐ぬ名てっ。
あれから、あんすとぅ、一軒、二軒でぃ五十軒ばかーん在いびーたんやー。うぬあたい在たんどーやー。昔ぇなーひん在たがやー。
うんにーからエイサーでぃるむん、でぃ、あぬ、うりしんだでぃやーに、エイサーやくとぅ。親志ぬエイサーやなー、うみちっとぅ昔物。戦前でーじやたんどー。親志ぇなー何ん見じゅる物ぉ無らん、エイサーばかーるやしぇーやー。酒一口ん飲まらんたんど、このエイサーねー。終わったらね、すぐまた、事務所んかい揃やーに疲い直しーすたしが。
あんとぅ、此処ぬ甕担みてぃ、「此処ぬハンシーメーや御肝良たさみしぇーくとぅ、一合がうたびみしぇーらー、二合がうたびみしぇーらー」んちよー、甕担みやーが居ん、酒貰やーが居るばー。あん、飲むんちしーねーて、なー絶対酒飲まらん。
それが、夜の十時頃から集まいびーてぃー。うぬあたいから始まやーに、うぬ土帝君一回巡れーからー、もう明くる朝ぬ八時頃までぃねー終わいたがやー。うぬ間なー、絶対眠ぶいんならん。あんとぅ、親志エイサーんち大事な音立っちょーたんよーや。
丁度、私たーが十一、二、三ないたがやー、学校、あぬー今ぬ飛行場、碑文ぬ在しぇーやー今、其処本校んでぃ言たんよー。其処ぬ五十年記念でぃち、なーアシビすぬ棒、色々二十四箇字から出じゃすたんで、親志エイサー一番なとーたん。うん、一番なとーたんどー。彼処、千原、千原エイサーでぃ、あぬ親志ぇ言たしがてー。
親志はね、廃藩置県後に安勢理殿内と永山殿内の人たちが首里からいらっしゃって開墾したのが始まりのようだ。それから、首里やあちこちから一人一人と集まってきて、寄り合ってできたのが親志であるわけさ。
それで、山の中のあちこちに家が散在していた。ずっと以前は親志のことを開墾とか多幸山と呼んでいたらしいよ。けれど、一人一人と集まってくるにつれて、「多幸山とか開墾と呼んではいけない、さあ何か名前を付けよう」と言って、永山殿内、安勢理殿内の方々が親の志ということで親志と付けた。
戦前は、「お前はどこの出身か?」と聞かれて、「親志です」と言うと、分からない人が殆どで、「多幸山です」と言うと分かってもらえた。「多幸山です」と言うと、「ああ、あそこか」と言ってね。今でこそ、「親志」という名で通っているんだがね。
それからまた、親志には土帝君があるでしょう。それはジャーラという山からジャーガル土を取ってきて、そこに仕立てたものでね。海と山と土地の神といわれる土帝君というのは唐から来た名前だよ。
その後、親志は一軒、二軒と増えて、五十軒ぐらいありましたよね。そのくらいはあったと思うよ。それとも、昔はもっとあったかな。
家も増えてエイサーでもやってみようかと始めたようで、その頃から親志のエイサーはあるよ。戦前、親志で催す娯楽は、エイサーぐらいしかなかったから、それはもう評判になっていたよエイサーをしている間は酒を一口も飲めなかったよ。全て終わってから事務所に集まり慰労会をしたんだ。
エイサーでは、甕を担いでいる者が、「ここのハンシーメー(お婆さん)は心が広いので、一合くださるのか、二合くださるのか」と歌いながら、その甕に酒を貰っていた。でも、エイサーが終わらないうちは酒を飲みたくても、飲むことはできなかったよ。
夜の十時頃から集まってエイサーを始め、土帝君をひと回りしてから、明くる朝の八時頃までには終わっていたかな。その間はもう、絶対に居眠りもできないぐらいだった。だから、親志エイサーはそれはもう評判だったよ。
丁度、私が十一、二、三歳の頃だったかな、読谷飛行場跡地に碑文があるでしょう。そこに読谷山尋常高等小学校の本校があって、その五十周年記念には、各字から芝居や棒術など色々な出し物が出されて、親志はエイサーを踊って一番になった。その頃、盛んだったエイサーは(嘉手納の)千原から習ったものだと言っていた。