読谷村しまくとぅば「むんがたい」

親志の始まり おやしのはじまり

話者 喜友名初江(1922・T11) 地域 親志 時間 03:20
  • しまくとぅば
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 (んかし)親志(おやし)や、廃藩(はいばん)(ゆー)首里(すい)から安勢理(あしり)殿内(どぅんち)とぅ永山(ながやま)殿内(どぅんち)、うん(ちゅ)(たー)親志(おやし)んかい()りてぃめんそーやーに、開墾(かいこん)あきてーるばーて。()きてぃさくとぅ、うにーから一人(ちゅい)一人(ちゅい)全部(むる)首里(すい)から(ちゅー)い、彼処(あま)からん、其処(ぅんま)からん取合(とぅやー)いジマやるばーて。


 あんすぐとぅ、(やま)(みー)にん何処(まー)にんきーにん()()てぃ。(へー)こー開墾(かいくん)多幸山(たこうやま)んりたんでぃ、親志(おやし)ぇど。一人(ちゅい)一人(ちゅい)かんし(あち)まいしんでー、「くれー多幸山(たこうやま)とぅか開墾(かいくん)でぃ()ちぇーならんむん。でぃ、(ぬー)がなぬ、うり()きら」んでぃ()ちさくとぅ。今度(こんど)ぉくぬ永山(ながやま)殿内(どぅんち)安勢理(あしり)殿内(どぅんち)ぬくぬうりがてー、(おや)(こころざし)親志(おやし)んでぃち()きてぃ。


 戦前(せんぜん)親志(おやし)ぇ、「ぃやー、何処(まー)(ちゅ)が?」でぃねーよー、「親志(おやし)やいびん」でぃれー絶対(ぜったい)()からん、「多幸山(たこうやま)」でぃねー()かいたん。「多幸山(たこうやま)やいびん」でぃねー、「えー、彼処(あま)なー」でぃ()たぬばー。(なま)る、「親志(おやし)親志(おやし)」する。


 


 あんさーにまた、親志(おやし)んかい土帝君(とぅーてぃーくー)んち()しぇーやー。うりんジャーラんでぃちぬ(やま)()んよーやー。其処(ぅんま)からかんし、ジャーガル(んちゃ)、あり(にじ)りめんそーやーなかい、其処(ぅんま)かい。あんさーに、土帝君(とぅーてぃーくー)(うみ)とぅ(やま)とぅ、土帝君(とぅーてぃーくー)やんでぃる、あぬうり、(とう)(なー)てっ。


 あれから、あんすとぅ、一軒(いっけん)二軒(にけん)でぃ五十軒(ごじゅうけん)ばかーん()いびーたんやー。うぬあたい()たんどーやー。(んかし)ぇなーひん()たがやー。


 うんにーからエイサーでぃるむん、でぃ、あぬ、うりしんだでぃやーに、エイサーやくとぅ。親志(おやし)ぬエイサーやなー、うみちっとぅ昔物(んかしむん)戦前(せんぜん)でーじやたんどー。親志(おやし)ぇなー(ぬー)()じゅる(むの)(ねー)らん、エイサーばかーるやしぇーやー。(さき)一口(ちゅくち)()まらんたんど、このエイサーねー。()わったらね、すぐまた、事務所(じむしょ)んかい(すり)やーに(をぅた)(のー)しーすたしが。


 あんとぅ、此処(くま)(かーみ)(かた)みてぃ、「此処(くま)ぬハンシーメーや御肝(うちむ)()たさみしぇーくとぅ、一合(いちごう)がうたびみしぇーらー、二合(にんごー)がうたびみしぇーらー」んちよー、(かーみ)(かた)みやーが(をぅ)ん、(さき)(ゐー)やーが(をぅ)るばー。あん、()むんちしーねーて、なー絶対(ぜったい)(さき)()まらん。


 それが、(よる)十時(じゅうじ)(ぐる)から(あち)まいびーてぃー。うぬあたいから(はじ)まやーに、うぬ土帝君(とぅーてぃーくー)一回(いっくゎい)(みぐ)れーからー、もう()くる(あさ)八時(はちじ)(ぐる)までぃねー()わいたがやー。うぬ(えーま)なー、絶対(ぜったい)(にー)ぶいんならん。あんとぅ、親志(おやし)エイサーんち大事(でーじ)(うとぅ)()っちょーたんよーや。



 丁度(ちょーる)(わっ)たーが十一(じゅういち)()(さん)ないたがやー、学校(がっこう)、あぬー(なま)飛行場(ひこうじょう)碑文(ひもん)()しぇーやー(なま)其処(ぅんま)本校(ほんこう)んでぃ()たんよー。其処(ぅんま)五十年(ごじゅうねん)記念(きねん)でぃち、なーアシビすぬ(ぼう)色々(いるいる)二十四(にじゅうよん)()(あざ)から(ぅん)じゃすたんで、親志(おやし)エイサー一番(いちばん)なとーたん。うん、一番(いちばん)なとーたんどー。彼処(あま)千原(しんばる)千原(しんばる)エイサーでぃ、あぬ親志(おやし)()たしがてー。


 親志はね、廃藩置県後に安勢理殿内と永山殿内の人たちが首里からいらっしゃって開墾したのが始まりのようだ。それから、首里やあちこちから一人一人と集まってきて、寄り合ってできたのが親志であるわけさ。



 それで、山の中のあちこちに家が散在していた。ずっと以前は親志のことを開墾とか多幸山と呼んでいたらしいよ。けれど、一人一人と集まってくるにつれて、「多幸山とか開墾と呼んではいけない、さあ何か名前を付けよう」と言って、永山殿内、安勢理殿内の方々が親の志ということで親志と付けた。



 戦前は、「お前はどこの出身か?」と聞かれて、「親志です」と言うと、分からない人が殆どで、「多幸山です」と言うと分かってもらえた。「多幸山です」と言うと、「ああ、あそこか」と言ってね。今でこそ、「親志」という名で通っているんだがね。


 それからまた、親志には土帝君があるでしょう。それはジャーラという山からジャーガル土を取ってきて、そこに仕立てたものでね。海と山と土地の神といわれる土帝君というのは唐から来た名前だよ。


 その後、親志は一軒、二軒と増えて、五十軒ぐらいありましたよね。そのくらいはあったと思うよ。それとも、昔はもっとあったかな。


 家も増えてエイサーでもやってみようかと始めたようで、その頃から親志のエイサーはあるよ。戦前、親志で催す娯楽は、エイサーぐらいしかなかったから、それはもう評判になっていたよエイサーをしている間は酒を一口も飲めなかったよ。全て終わってから事務所に集まり慰労会をしたんだ。


 エイサーでは、(かめ)を担いでいる者が、「ここのハンシーメー(お婆さん)は心が広いので、一合くださるのか、二合くださるのか」と歌いながら、その甕に酒を貰っていた。でも、エイサーが終わらないうちは酒を飲みたくても、飲むことはできなかったよ。


 夜の十時頃から集まってエイサーを始め、土帝君をひと回りしてから、明くる朝の八時頃までには終わっていたかな。その間はもう、絶対に居眠りもできないぐらいだった。だから、親志エイサーはそれはもう評判だったよ。


 丁度、私が十一、二、三歳の頃だったかな、読谷飛行場跡地に碑文があるでしょう。そこに読谷山尋常高等小学校の本校があって、その五十周年記念には、各字から芝居や棒術など色々な出し物が出されて、親志はエイサーを踊って一番になった。その頃、盛んだったエイサーは(嘉手納の)千原から習ったものだと言っていた。

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解説

親志を切り拓いた最初の14家のうち、唯一残ったのが安勢理家であった。親志の根屋(発祥家)とも位置づけられ、親志のリーダーとして尊敬を集め、「アシリヌタンメー」と呼ばれた初代の朝苗氏以来4代を祀る墓で、2016(平成28)年に自治会によって建造された。 (「親志ガイドマップ」拝所とカー、安勢理家之墓)

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