読谷村しまくとぅば「むんがたい」

都屋の始まり とやのはじまり

話者 古堅太次郎(1910・M43) 地域 都屋 時間 01:02
  • しまくとぅば
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 あんとぅ、(んかし)ぇやー、本当(ふんとー)都屋(とぅやー)やあらん、座喜味(ざきみ)ぬしじやたるふーじーやいぎさんよー。あんしがなー、くぬ戦争(しぇんしょー)うりっし、なーくぬ終戦(すーせん)なたぐとぅ、都屋(とぅやー)とぅしっ(あざ)なとーるばーよーやー。


 あんとぅ、(んかし)其処(ぅんま)んかい、うぬ都屋(とぅやー)んかい、一番(いちばん)めんそーちゃしぇー新屋(みーやー)とぅ阿波根(あはぐん)とぅ、うりから古堅(ふるぎん)とぅやー西島袋(いりしまぶく)んり、うっさめんしぇーたんでぃ。あんとぅ、うっさからくぬ都屋(とぅやー)都屋(とぅやー)やなー(ひる)がとーるしじなとーぬばーてー。あんとぅ、半分(はんぶの)ぉなー、私達(ぅんがた)ぁくぬ都屋(とぅやー)部落(ぶらく)古堅(ふるぎん)(うー)さるばー。


 あんさーに、糸満(いとまん)からん寄留(きりゅう)すい、しーから本部(むとぅぶ)からん(ぬー)んりがー、名護(なぐ)からん寄留(きるー)するばー、ブーマーヤーんち前兼久(めーかにく)ぬ、んち()てーぐとぅ。うぬしんかー寄留民(きりゅうみん)やしが、なー(ぬく)いしんかー全員(むる)なー方々(ほうぼう)からぬ寄留民(きりゅうみん)やてーぎさんよー。あんさ、都屋(とぅやー)部落(ぶらく)ぉ、(なまー)なー百四十四(ひゃくよんじゅうよん)(けん)がらーなとーるばー。

 戦前までは、都屋は字座喜味の一部だったんだがね。戦後(1946年)に、都屋として一つの字になったんだよ。


 


 昔、都屋に先にいらしたのは新屋と阿波根、それから古堅と西島袋だったそうだ。その人たちから都屋は広がっていったということさ。それで、都屋は古堅姓が多いんだよ。


 


 それから、糸満からも寄留するし、本部や名護からも寄留するし、(恩納村)前兼久にあったブーマーヤーという家から寄留した人たちもいた。そうして、各地からの寄留民がやってきたそうだよ。そのようにして、都屋の部落は今ではもう百四十四軒にもなっているわけだよ。

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解説

都屋は、琉球藩設置(1872年)前後に移住してきた士族によって形成された屋取集落であった。都屋という地名の由来については諸説あるが、1800年代前半頃に那覇の泊村から移り住んだ家庭が、その出身地から「泊屋小(トゥマイヤーグヮー)」と呼ばれ、それが転じて「トゥヤ」となり、いつしか地名になったとの言い伝えが残る。 明治時代中期から後期になると各地からの移住者が増え、地の利から村内中部の移出入港の様相を呈したほか、漁業民も増加し、都屋の漁業は栄え、その名を馳せた。 都屋は戦前まで字座喜味の一部であり、都屋組(トゥヤーグミ)と呼ばれた。沖縄戦後、都屋住民は各地の住民収容地区に収容されたが、1946年11月、本字座喜味からの分離が決定され、まだ集落への帰村が叶わないなか、字都屋が誕生した。しかし、集落への再居住は1949年まで待たねばならなかった上に、かつての集落は米軍により敷きならされ、再居住にあたっては新たな区画整理を必要とした。 米軍基地接収により楚辺集落がやむなく現在地に移転し、都屋集落は楚辺集落と連なる住宅密集地となっている。また返還された米軍基地跡地には保健・医療・福祉施設が建設され、その拠点地区ともなっている。 戦前栄えた漁業の従事者は現在では数少なくなっているが、都屋漁港は本村漁業の中心地として、養殖漁業の振興、海洋レクリエーション事業といった新たな展開、発展をみせている。(「都屋ガイドマップ」字概況)

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