あぬー、まあ廃藩ぬ侍ぬ達ぁちゃーさらー良しがんち、摂政三司官集まやーに協議さる結果、松山御殿ぬ牧原んり、牧場。なー其処んじ耕ち食みよーんりやーに遣らさったくとぅ。
其処からあんさーに、なーうれー百姓やしぇーんらんるあくとぅ、今度ぉちゃーすがんりねー、なーあんしんなー命繋じゅる為ねーしわるやるんち、牧原んかい派遣さってぃ。その当時、八名ぐらい、あぬ侍ぬ達が牧原んかい来に、農業やすんりさくとぅ分からん。とーくれーちゃーするむんがんち。今度ぉある人ぬ、山原から派遣しわる、百姓から派遣しわるやるんりやーに。うぬ耕ちさくとぅ、今度なーいよいよ教わりやーにそーんねやしが。あんさーに、なーうれー山原ん人んりしん、ただ鍬道具持っち来るまでぃどぅやくとぅ。
あんさーに、侍んかい習する意味し、今度ぉいよいよなー山原から来くとぅ。なー其処牧場やしが、とーくり山るやいすぐとぅ、耕する為ねー、なー作いる為ねー山原ん人ぬ考ぇ方ぬ、山切り倒さーに、うぬ道んかい肥茅ぁ放やーに人んかい踏まさーに、あんさーいうり上ぎてぃ、今度ぉ堆肥作てぃ芋ぉ入ったくとぅ。あぬー、うにーねー出来たしが。うぬ前ぬ話や侍ん達ぁ分からんるあくとぅ、圃場んかい七ち入ねー大芋んち嬉さし、生活そーたんりぬ話。
あんさーに、それからまあ八名やしが、今度ぉ山原からん相当上がてぃ来くとぅ。其処ぁ良い所やんどーさーに上がてぃ来れー。とー、なー良い所んりやーに、全員開墾開きー勝負さーなかい。いよいよ今度なー平和んかい戻てぃちゃしが。うぬ侍ん、やっぱりなー続々、今度ぉ首里から良い所やんでぃち上がってぃ来ん。あんし、其処をぅとーてぃ今度なー三十名ぐらいなとーたんり、なとーしが。
今度ぉうぬ土地や松山御殿ぬ土地やしが、今度なーうぬ沖縄台南製糖んち在たしが、砂糖黍作てぃ砂糖煮る所ぬ有くとぅ。今度ぉうぬ松山御殿ぉ其処んかい株入っち、台南製糖工場んかい株入っちゃくとぅ。今度ぉ入っちゃる為ねー失敗さーに、うぬ土地や売らんあれーならんりる立場んかいなたくとぅ。
今度、とーなーうれー、あんしぇー入っちょーる人達ぁ反対。「売てーならんうぬ土地や私達ぁ物るやる」とぅか。「あー、うれーなーあぬー彼処んかい売りわるないん」とぅか、今度ぉ松山御殿とぅぬいっぱいかっぱいぬ有てぃ。
所謂、なーあぬー、あんしぇーならんりち、くぬ牧原んかい居る人達ぁ手拭被てぃ、当時。鉦鼓打っち会社んかい寄し掛きてぃ。所謂なー現代のデモみたような恰好やたんり。あんしし、やしが、いよいよ銭にん締みらってぃ、銭ぉ無んるあくとぅ、うぬ人達ぁ。さーに、今度なー負きやーにかい、今度ぉ会社地んかいなたんりる意味なてぃ。今、現在ん会社地やるばーて。
あんしやしが、なー今度ぉうりから、まあ、それでも良いんち、なー仕方ならんるあくとぅ。今度なー地叶ぇ払てぃ自分達ぁ物食まんあれーならんりる事んかいなてぃ。今、現在や、なー、戦前ぬ、戦争、くぬ戦争前までー八十所帯居てーびんや。あんしがなー、青年会ん村ぬ一位ないる農業発展地域やるばー、牧原という所は。あんさーなかい、なー今度ぉあぬー青年会ん七、八十名ん居い、なー八十家庭びかーぬ部落、発展ぬ牧原やたしが、戦んかい追ってぃ、今、現在の調子なとーんりるばーよ。まあ、大体凡そうぬふーじーやたる話。
廃藩で職を失う士族たちの今後をどうしようか摂政三司官らが集まって協議した。そこで、松山御殿の牧場を耕作させ生活するように決めた。
士族たちは百姓の経験もないので、どうしようかと思いながらも、生活するためには牧原へ行くしかないと、当時八名ほどが牧原にやってきたそうだ。しかし、牧原に来て農業をしようにも、その方法が分からない。さて、どうしたら良いものかと、ある人の提案で山原から百姓を招いて農業を教わることにしたそうだ。それで、山原から百姓が鍬などの農具を持ってやってきたそうだ。
そうして、彼らに農業を手ほどきするために百姓が山原からやってきた。牧原は牧場として使っているので、周囲は山が多いでしょう。そこを畑にするためには、堆肥を作ることが先決だと山原の百姓は考えた。そこで、山原の百姓たちが始めたのは、山を切り開いて出来た道に茅を放り覆った。人が道を通るたびに踏みつけられた茅を堆肥にし、それを畑に入れて芋を植えたら豊作だったそうだ。それまでは、彼らは圃場に植えた芋が七個しかできてないにも関わらず、大きな芋だと喜んでいたそうだよ。
そうして、最初は八名だったのが、ここは良い所だと分かって、山原からもかなりの百姓たちが出て来たわけだ。もう本当に、ここは良い所だといって、皆競って開墾してね。いよいよ生活も安定してきたら、首里に残っていた士族も、良い所だと聞いて続々やってきたそうだ。そして、三十名ぐらいになっていたそうだ。
そしたら、移り住んだこの牧原は、元は松山御殿の土地でしょう。牧原には沖縄台南製糖というサトウキビ製糖工場があって、松山御殿はそこの株を持っていた。ところが、事業の失敗で、その土地を売らなければならない立場に追い込まれた。
牧原に入植した者たちはそのことを知って、「売ってはいけない。この土地は開墾した私たちのものだ」と反対した。「いや、もう製糖会社へ売らなければならない」という、松山御殿との一悶着もあったようだ。
そうさせてはならないと、当時、牧原の住民は手拭いを被り、鉦鼓を打ち鳴らしながら会社に押しかけた。現在のいわゆるデモみたいな様相だったそうだ。そうだったが、金銭の交渉で譲歩させられてね、みんなお金は無いものだから、それで、牧原は会社の土地になったということだ。今、現在も会社の土地になったままさ。
そんな経緯で、しょうがない、もう仕方のないことだからね。住民は食べていくためには借地代を払ってでも、生活しなければならなくなったわけだ。戦前、去る大戦前までは八十世帯ほどあったでしょうね。青年会員も七、八十名はいて、村で一番の農業発展地域として栄えていたよ、牧原は。そのように発展していた牧原だったが、戦に追われ牧原を後にして、今、現在に至っているわけだ。まあ、大体そういうことだ。