読谷村しまくとぅば「むんがたい」

大木徳武佐 おおきとぅくぶさー

話者 島袋利蔵(1893・M26) 地域 古堅 時間 01:28
  • しまくとぅば
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 (ぬー)なとーがりれーや、あれー(むかし)鹿児島(かごしま)島津家(しまづけ)沖縄(うちな)()みんが(ちゃ)くとぅやー。(はじめ)島尻(しまじり)から()みーんでぃすしが、彼処(あま)ぁ、けん(まむ)らっとーぐとぅ()りーさん、国頭(くにがみ)からさーに()みてぃっ()っ。


 あんし、沖縄(うちな)野蛮(やばん)ぬうりるやくとぅ、鉄砲(てぃっぷー)さーに()りくじらってぃやー。国頭(くにがみ)、あんし沖縄(うちなー)(いくさ)ぬぶん農民(のうみん)(ちゃー)やクルマボーさーによ、(たたか)てぃあんそーたんりよー。なー大事(でーじ)んでぃる(くと)()からんやー、鉄砲(てぃっぷー)さーに()らりーぎーしが、なかなか()なんたんでぃよ。大事(でーじ)()からんるあぐとぅ。


 あんし、次第(しでー)次第(しでー)其処(うま)んかい()()ぃ、なー此処(くま)っちぇーなー、(ちょー)るばー読谷山(ゆんたんじゃ)此処(くま)までぃ(ちょー)るばーよー。あんし、くりかー(ひん)(ちゅ)大木(おおき)んでぃる(とぅくま)んかい避難(ひなん)しみてぃやー。彼処(あま)大木(おおき)んでぃる(とぅくま)沢山(だてーん)()(ぎー)(みー)てぃやー、なーふちゃーじいっぺーそーる(とぅくま)やたんでぃよー。


 あんさーにそーしが、うぬ内地(ないち)島津家(しまづけ)軍隊(ぐんたい)其処(ぅんま)までー(ちー)うーさんやー。あんし、うぬ武士(ぶし)大木(おおき)(まむ)てぃやー。あんさーに(とぅく)()てーる武士(ぶし)んちやー、彼処(あま)徳武佐(とぅくぶさ)(なま)(ちゅく)らっとーんでぃ。うぬ(いくさ)(とぅく)()武士(ぶし)(まむ)てぃ、(とぅく)()てーるうりでぃち、なーうぬ恩返(おんがえ)しとぅし徳武佐(とぅくぶさー)(うが)(ちゅく)らっとーんでぃ。

 そこはどういう所かというとね、昔、鹿児島の島津家が沖縄を攻めてきた。最初は島尻から攻めようとしたが、あそこは守りが堅くて入れなかったので、国頭から攻めたそうだ。


 当時の沖縄は遅れていたので、敵は鉄砲で撃ちこんでくるのに、農民はクルマボー(殻竿)で戦っていたそうだ。それでも弾に当たることはなかったらしいよ。それにしても、恐いもの知らずだったんだね。



 それでも、敵は次第に読谷山まで押し寄せてきたようだ。それで、人々を近くへ避難させたわけだ。そこには大きな木が立ち並び、生い茂るその木々の葉に守られたそうだ。




 そこに避難していたら、島津家の軍隊はそこまで入ることはできなかった。それで、その木々のおかげだということで、徳武佐という拝所になったんだって。その戦のときに、そこで助かったということで、恩返しとして徳武佐の拝みをするようになったそうだ。

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解説

三山分立の頃(14-15世紀)、北山(今帰仁)の若按司が北山での勢力争いに敗れ、大木原の中腹に位置する深林であったこの地に隠れ、難をしのいで再興を成し遂げたことに由来する拝所と言われている。字大木の名称は、楚辺の小字である大木原に由来するが、この林には古い大木が生えていたことから名付けられた地名であるという。伝承では、先述の若按司にゆかりの人びとが毎年9月13日に参拝に訪れ、それが明治時代まで継続されていたとのことで、当時の大木の住民が合いはかって、1921(大正10)年に現在地に木造瓦葺の御宮を建立した。1964年にはコンクリート造の御宮が、さらに2005年に現在の御宮が再建立された。 字大木では旧暦9月13日(ジュウサンヤ)には徳武佐祭として、1年の無事を感謝し、向こう1年の豊年と健康を祈願する。御宮のしめ縄は、毎年の祭ごとに新調、奉納されている。 また、この徳武佐は子宝祈願の拝所としても知られるほか、除難、招福、家内健康・繁栄の御利益もあるとして、参拝する人びともいる。(「大木ガイドマップ」戦前の大木①、徳武佐(トゥクブサー))

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