くぬ渡具知ぬやー、字や潟原なかい、三十家庭ぇ成功しめんしぇーたんでぃしが居たんでぃしが。何百年がなとーらー、何十年がなとーらー、いぇーりん印有たがやーんちそーしが、うれー分からんしが。
三十家庭在たんでぃる中から、くぬ村ぬ根屋んでぃしぇー、いっぺーぬ優秀ぬ所なかい初まいから作らってぃしちゃくとぅ、潟原んかい在いんからどー。
其処んかいや根所、根屋んでぃしぇー上してぃ来っ立派んに造たんでぃ。造たくとぅうぬ山ぉよー、うり屋敷求みたる風水まとぅみらっとーる所ぉやー三日月ぬ形やんでぃ。丁度三日月ぬ形ぬ風水やんでぃ後ぇ。前や広がてぃ後ぇ三日月なかい包まっとーるばーてー。
あんさくとぅ、西御嶽、東御嶽んでぃち渡具知ぬ村や有名なあんでぃしや、東御嶽、西御嶽、村ぬ根屋とぅ三方ぬ腰当しみてぃ、渡具知ぬ村ぬぐとーる威勢ぬある栄い取いる字ぁ無んでぃ、昔話ぬ。伝え話ぬ私達んかい譲てぃちゃるばー。
あんさくとぅ、なー潟原なかいや何十年が居たらー分からんしがてー。丁度三間、シマぬ長横ぬ流りてぃ来るむのー三間びかーぬ川ぐゎーなとーたんでぃ。今、渡具知ぬ村、潟原ぉ。
また、南ぬ土地ん山、此処、渡具知ん土地ん山、あんさくとぅ、潮ぬ満っちん、引っちん膝から上少ぐゎーる上てぃしーねー、下サナジぐゎーる浸がてぃ渡い越やすたんでぃ。あんさ、潮ぬ満っちんどー、うっさるやたんでぃしが。
くぬ新しい渡具知ぬ港ん造たしん、くぬ渡具知ぬ三十家庭上んかい上がてぃ行ぢから、たったたった世代ぬ流りてぃちゅーしんでー、また山荒らしん出じてーんてー。上部ぬ山荒らしぇ人ぬ多くないしんでー、山切っち開きたくとぅ水ぇやまなてぃ、川なたんでぃ。
あんしさーにしちゃくとぅ、くぬ村ぬ根屋んでぃしぇー、是非何処んかいん引っ越ちぇーならん。くぬ三十家庭、家庭から七十家庭ないん、九十家庭ない、百家庭余いなたんでぃしぇーくぬ世までぃねー。
あんしぬ其処、栄いそーる渡具知部落やくとぅやー、是非あぬ部落んかい行ぢ栄ぇ取ってぃ、また元ぬ形造らんあれーならんでぃち。くぬ年取っとーる人ん達がん、また若い者達が屋敷ん無んぬーん、是非彼処んじ辛抱しさんあれー、くぬ世や造ららんさにんちぬ計れー持っち、区長さぬん自分達んなーあんしぬ、一日ん早く彼処んかい渡いんでぃる事さーやーさーやーし、そーるばーやしがてー。
うりからまた、此処ぁ昔ぬアシビナーやたんでぃさ。また、此処ぁ潟原んかい在いんうてぃ、くぬ根所ぬ前んでぃしぇー、ゥンマイー。丁度私達ぁ空馬乗たい何さいしよー訓練しみーる所、ゥンマイーんち根屋ぬ前んかい。あんさくとぅ、うりんだーくぬ戦世なたくとぅ荒らさってぃむる無んなとーぐとぅよー、うみなさったくとぅ、うりん残念。
あんさくとぅ、元ぬ形出じゃちとぅらさんなーんち軍んかい、成功しっとぅらんしんでぃち御願すんでぃるばーてー。あんすくとぅ、其処る第一やくとぅくぬ渡具知ぬしー栄いすんでぃしぇー、なー是非風水ぇ風水ぬぐとぅまとぅみてぃ力入ってぃいかんあれならんむんちよ。
この渡具知の始まりは、潟原にあった三十世帯で成り立ち、栄えた部落であったそうだ。その記録は多分あると思うが、何百年になるのか、何十年になるのか、はっきりしたことは分からない。
渡具知の根屋というのは、その潟原に三十世帯あった頃から、すでに良い場所にあった
潟原から移ったところの風水は、三日月の形だというよ。集落の前方は広がって、後ろは三日月に包まれたような形になっているわけさ。集落を移してからも、根屋は上の方に立派に造ったそうだ。
それから、渡具知には東御嶽と西御嶽という有名な御嶽があるでしょう。その二つの御嶽と村の根屋の三か所が後ろ盾になって護られている渡具知のような、活力があって栄えている字はないという、昔からの話だ。そういう話が私らに受け継がれているわけだ。
その前の潟原には何十年いたのか分からないがね。渡具知集落が潟原にある時にね。丁度、潟原の集落に沿うようにして、三間(一間は約1.82m)ほどの川ができていたそうだ。
集落は小高いところにあり、また南の方も山なので、潮の干満にも膝上少しぐらいまでしか海水は上がってこなかった。なので、渡る時にも褌が濡れるくらいの深さを行き来していた。満潮時にもそれぐらいの深さだったというんだがね。
渡具知に港が造られたのも、潟原にあった三十世帯が上の方に移動してからだという。時が経つにつれ人の行き来も多くなり、山を荒らす者も出たんでしょう。山を切り開いたら、水もあふれて川もできた。
そのように渡具知集落は潟原から移ってきたが、この渡具知の根屋というのはどこへも移動させてはいけない。潟原で三十世帯から始まった渡具知部落が七十世帯になり、今では百世帯余りまで発展しているわけだ。
そのように栄えてきた渡具知部落だからね。是非とも戦前のあの集落地に戻り、発展していけるように、元の風水に沿った集落の形を造らないといけないと思っている。年配の方々も、また若い人たちで屋敷のない人たちも、元の集落地で頑張らないと、これからはやっていけないと考えている。区長さんも自分らも、一日も早く元の集落地に戻れるようにしようと、話をしているんだがね。
それからまた、根屋の前は昔のアシビナーだった。また、ゥンマイー(馬場)は潟原にいる頃から根屋の前にあったそうだ。そこで裸馬に乗って訓練などをした。しかし、そこももう戦争の時に壊されてなくなってしまったのが、残念である。
だから、元の形に戻してくれと、米軍に要望するというわけさ。だから、それが肝要なことで、渡具知がこれから発展するためにも、是非ともかつての風水を手本にして、ムラづくりに力を注いでいかねばならないと考えているよ。