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 南進国策と情報管理

 一九四〇年(昭和十五)に成立した第二次近衛内閣は「基本国策要綱」を発表して大東亜新秩序と高度国防国家の建設をうたい、新体制運動を強力に推進した。その特色は南方諸地域を含む全アジア侵略を公然と宣言した点にあり、これは大本営の「時局処理要綱」に具体化され、日独伊三国同盟から南進国策への転換、さらには対米戦争にいたる日本の新たな方向を決定したものであった。
 国内にむけては、「一君万民の精神に基く万民輔翼(ほよく)の政治の実現」を打ち出し、事実上の一国一党である大政翼賛会がつくられた。政党と民間の自主的な団体は解散させられ、「万民翼賛」、「承詔必謹(しょうしょうひっきん)」、「上意下達」といったスローガンのもとに国民を支配していった。とくに隣組は、皇国思想の普及、生活統制、戦意高揚、供出などの末端組織として利用された。
 戦時体制の強化とともに、思想統制と情報管理も徹底された。わが国には当時、「要塞地帯法」・「軍機保護法」といった法律があって、軍事機密は厳重に管理されていたが、一九四一年(昭和十六)にはさらに「国防保安法」を制定して機密の管理を強化した。大本営の発表に疑問をもつことは非国民としてきびしく処罰され、社会主義者や自由主義者はつねに特別高等警察(特高)にマークされた。本人だけでなく家族の者もふくめて、共同体のなかでもきびしく監視された。キリスト教徒もスパイ容疑者としてつねに監視された。
 移民帰りの多い沖縄にはハワイやフィリピンから帰った人たちが多く、片言の英語やスペイン語を話すという理由で、つまり「敵性語」を話すということで疑いの目で見られた。ユタも流言飛語を流す者として処罰された。
 対外的には、一九四〇年(昭和十五)ごろから日中戦争の長期化の矛盾が深刻になり、東南アジアへの進出によって事態を打開しようとしていた。
 一九四三年(昭和十八)七月十一日、南方戦線を視察しての帰り、沖縄に立ち寄った時の首相東条英機は、沖縄ホテルを宿舎とし、そこで聖戦遂行のための訓示をたれた。翌日は、沖縄神社(首里城内)参拝で首里を訪れたが、綾門(アヤジョー)通りには地元官憲をはじめ、中等学校生多数が出迎えた。
 沖縄では、指導者たちが「南進国策」にのって南方進出を精力的に訴えた。「東亜自給圏確立」のための人的資源となるために、軍・官・民一体の開拓移住が推進された。沖縄県当局は「南方移民政策に一大転機到来す」といって歓迎し、一九三九年(昭和十四)からは沖縄県社会課が直接県下一円に大募集をおこない「南洋開発勤労隊」という名で開拓移住を推進した。
 南方への移住は軍事色をつよめていった。日本軍が占領した中国領の三竈島(さんそうとう)や海南島、新南群島への集団移住がその典型であった。太平洋戦争が始まると国策による送り出しは更に積極的になった。一九四二年(昭和十七)には第一次沖縄報国隊が送り出され、以後県漁連や水産会社の運営の一環で数次にわたって送り出された。
 一九四一年(昭和十六)には、南方建設戦のための県立拓南訓練所が金武村中川に設立され、漁業移民の訓練施設として糸満に支所を設けた。拓南訓練所の目的は、「敬神崇祖忠孝一如ノ日本精神ヲ体得セシメ、帝国臣民トシテ八紘一宇(はっこういちう)ノ大精神ヲ身ヲ以テ大陸ニ大洋ニ具現スル」というものであった。これは満蒙開拓のために茨城県に設置された内原訓練所に対応するものであった。拓南訓練所からは、満蒙開拓の要員も送り出している。満州国に渡った兵農移民の団体が満蒙開拓団で、徴兵以前の十六歳から十九歳までの少年たちは、茨城県の内原訓練所で特訓を受けて満蒙開拓青少年義勇軍として送り出された。
 沖縄県では一九三九年(昭和十四)に、「三万戸十万人分村計画」を打ち出し「二十町歩地主」「五族協和」などを宣伝して満州移民を募集していた。北谷出身の衆議院議員・伊礼肇が第一次近衛内閣の拓務参与官になっていたこともあって、金武・恩納・読谷山・北谷・宜野湾・中城・越来・美里などの若者たちは大陸進出の気分をあおられた。
 日中戦争の拡大とともに、兵士とともに軍馬も動員された。それは単に乗馬としてだけでなく、補給輸送力として必要とされたもので、自動車輸送力の低い、また道路状態のよくない中国戦線では軍馬が軍需物資輸送の中心となった。アジア太平洋戦争において、徴発された軍馬の頭数は不明であるが、戦場に死んだ軍馬は百万頭をこえると言われている。
 一九三九年(昭和十四)、政府は四月七日を「愛馬の日」と定め、軍馬の育成について国民の関心を高めようとした。「愛馬の日」の制定に先立って、陸軍省は馬政課長の栗林忠道大佐(のち第一〇九師団長として硫黄島で戦死)が主唱して、「愛馬進軍歌」を全国公募した。
 久保井信夫作詩・新城正一作曲、霧島昇・松原操の唄でコロンビアから発売されたレコードは爆発的に売れた。
 沖縄では、恩納村名嘉真出身の新城正一が国家的な栄誉に輝いたということで熱狂した。新城正一は沖縄県立師範学校で宮良長包の指導を受けた新進気鋭の作曲家で、その名は県下になりひびいた。
 「国を出てから幾月ぞ ともに死ぬ気でこの馬と 攻めて進んだ山や川 取った手綱(たづな)に血が通う」という勇壮な「愛馬進軍歌」に乗って、若者たちは満蒙開拓団・満蒙開拓青少年義勇軍として満州へ渡った。時代思潮を反映したものといえよう。彼らの多くは、ソヴィエト参戦によってシベリアに抑留され、氷雪の荒野に苦難の数年を過ごし、尊い命を落とした者も多かった。

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