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 教育の軍事化

 一九二五年(大正十四)には、男子中等学校以上の学校では、軍事教練を正課とした。翌年四月からは、青年訓練所が全国の市町村に設置された。これは、尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象としたもので、おもに小学校・実業補習学校に併設された。修身公民科と教練を必修科目とし、そのほかに普通・職業の各科があった。就業年限は四年とし、八〇〇時間で、うち四〇〇時間は教練にあてられた。一九三八年(昭和十三)六月からは学徒勤労動員もはじまった。
 一九三五年(昭和十)には、青年訓練所と実業補習学校を統合して青年学校が発足し、尋常小学校卒業の勤労青年に軍事教育と産業実務教育をほどこした。一九三九年(昭和十四)からは、教育の機会均等の名目のもとに男子生徒は義務化された。これは、徴兵検査前に軍事教練を徹底させることを急務とした政府の政策によるものであった。
 一九三九年五月には「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が公布され、天皇のために身命をささげることが強調された。尋常小学校五年以上の男児に武道を正課とするなど、軍国主義的傾向は一段と強化された。
米大統領ルーズベルト、英首相チャーチルの似顔絵をたたく。1943年9月。山梨県・塩山国民学校(「日本の侵略展」パネルより)
 その尋常小学校も、一九四一年(昭和十六)からは国民学校となり、学校教育は総力戦にそなえた戦時体制に組みこまれていった。教育は「皇国民の錬成」を主眼とし、義務教育は初等科六年、高等科二年とした。初等科の教科は国民科(修身礼法を含む、国史・国語・地理。国民精神を涵養(かんよう)し皇国の使命を自覚せしむ)を中心に理数科(算数・理科。合理、創造の精神を涵養し国運の発展に貢献せしむ)、体錬科(体操・武道。遊戯及び競技、衛生を含む。闊達剛健(かったつごうけん)なる心身を育成し、献身奉公の実践力を持たしむ)、芸能科(音楽・図画・習字等。芸術技能を修練し、情操を醇化(じゅんか)し国民生活を充実せしむ)の四教科、高等科にはさらに実業科(農・工・商・水産。一定の職業に従事し、職域奉公せしむ)の科目が置かれ、徹底した皇国民教育がおこなわれた。教科のなかで特に重視されたのは、国民科修身と体錬科であった。
 修身は「皇国ノ道義的使命」を自覚させるために、国民道徳の実践を指導し、「公ニ奉ズルノ覚悟ヲ鞏固(きょうこ)ナラシム」とした。体錬科では、強靱(きょうじん)な体力と旺盛な精神力が「国防ニ必要ナル所以(ゆえん)」を自覚させ、団体訓練を重んじ、「服従ノ精神ヲ涵養(かんよう)スル」ことにつとめ「教練ヲ重ンズベシ」とした。陸軍省の兵務局長は「国民学校は少年兵の巣立つ場所であり、軍事教練を徹底させよ」と訓示した。
 子どもたちは「少国民」と呼ばれた。それは単なる「少年少女」という意味ではなく、天皇の軍隊の「予備軍」である「年少の国民」という意味であり、国家有事の際には戦場へ進軍する覚悟をうながす呼称であった。
1942年5月、東京中目黒国民学校の体錬(「日本の侵略展」パネルより)
 国民学校では、四大節(しだいせつ)(元旦、紀元節、天長節、明治節)の行事が特に重視された。儀式では、式場の正面に御真影(天皇皇后の写真)を飾り、校長によって「教育勅語」が奉読され、児童生徒はこれを謹聴(きんちょう)し、身じろぎすることも許されなかった。
 国民儀礼(国旗掲揚、宮城遙拝、出征兵士の武運長久を祈願する黙祷(もくとう))、徒手体操、校長の時局訓話、今週の目標点検、校庭行進など、これらの式典や行事に参加することが、「皇国民の錬成」とされたのである。

 教育勅語

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス。爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン。
 斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶二遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

明治二十三年十月三十日

 御名 御璽


 太平洋戦争直前の一九四一年(昭和十六)八月、文部省は、各学校に対して「学校報国隊」の編成を訓令し、一九四三年(昭和十八)六月には「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定している。軍需工場や食糧生産の現場に、学徒を勤労動員しようというものであった。
 太平洋戦線の緊迫とともに、一九四四年(昭和十九)一月には「緊急学徒勤労動員方策要綱」を決定し、学徒動員を年間四か月継続しておこなうこととなった。八月には「学徒勤労令」を公布して、学徒動員の法的根拠とした。
 沖縄では、陣地構築や飛行場設営に、児童生徒が連日動員されることになった。一九四五年(昭和二十)三月には「決戦教育措置要綱」によって、国民学校(現在の小学校)初等科を除き四月から一年間授業停止となった。沖縄決戦・本土決戦にそなえたものであった。
 学徒隊についても、同年五月には「戦時教育令」を公布して中等学校や女学校だけでなく、国民学校や盲聾唖学校にまで、学徒隊編成を義務づけていった。沖縄戦における学徒の戦場動員は、その先例となったわけである。

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