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 総動員体制

 一九三八年(昭和十三)四月、その後の国民の命運を決する「国家総動員法」が公布された。この法律では、戦時・事変に際し、国防目的達成のため、国力を全面的に発揮することができるように人的・物的資源を統制運用することになっていた。
武器に変えるための鉄柵の回収風景
(「日本の侵略展」パネルより)
 動員と統制の対象は、人と物と情報のすべてにわたり、教育と研究も戦争目的に従属させられた。これらの措置は、この法律にもとづいて「政府がすべて独自の判断で勅令によって実施する」ことができるようになっていた。国家総動員法にもとづいて出された勅令や省令は数百にのぼった。「国民徴用令」「金属回収令」「女子挺身勤労令」「国民勤労動員令」などは国民の記憶に鮮明に残っている。
 消防組と防護団を統合した警防団も結成された。これは、防空・警防・救護など、有事の際の「郷土の守り」とされ、一九三九年(昭和十四)八月には県下二市五五町村全部に警防団が結成された。同年九月からは「興亜奉公日」が設定され、毎月一日を奉公日と定め、戦時生活刷新と戦意高揚をはかるために、全国一斉に諸行事がおこなわれた。この日は禁酒禁煙・娯楽施設の全休など「戦場の労苦を偲(しの)び自粛自省これを実生活に具現する」という趣旨のものであった。具体的な行事は、「国民生活綱要」にもとづいて宮城遙拝(きゅうじょうようはい)、黙祷(もくとう)、戦没軍人の墓参及び遺族の慰問、傷痍(しょうい)軍人・出征軍人の家(名誉の家)の慰問、料理店・カフェ・遊戯娯楽機関の自粛自戒、飲酒・喫煙の節約または禁止、婦女子のはでな化粧・服装の廃止などが主なものであった。パーマネントもきびしく規制された。「パーマネントに火がついて、みるみるうちにハゲアタマ、はげた頭に毛が三本、ああはずかしい、はずかしい、パーマネントはやめましょう」といった歌で婦人のおしゃれをいましめた。官公署、学校会社などはもちろん、町内会・部落会など国のすみずみまで総動員の網が張りめぐらされた。
「贅澤は敵だ」のプラカードを掲げ
行進するモンペをはいた女性
(「日本の侵略展」パネルより)
 太平洋戦争の勃発に伴って「興亜奉公日」に代わって、毎月八日を「大詔奉戴日」として国民生活の規制、統制は更に強化された。
 沖縄では、「刷新項目」のなかに特に「標準語の励行に努むること」が掲げられ、「一億一心言葉は一つ」・「一億の心を結ぶ標準語」といった標語のもと、学校教育だけでなく日常生活の内部まで方言撲滅の運動が浸透し強化されていった。
 標準語励行の強行手段として、各地の学校で用いられた「方言札」という罰札がある。方言(沖縄の地元ことば)をつかった生徒に方言札と書かれた木札を渡し、これをもらった生徒は方言を話している他の生徒を見つけて渡すきまりであった。方言札にひもを通して首にさげさせるという、屈辱的な方法もとられた。生まれ育った故郷の文化を誇りに思うことができないのであるから、子どもたちの心をゆがめ生活感情まで圧迫していった。批判精神を失い、中央指向・事大(じだい)主義の気風がつちかわれていった。
 一九四〇年(昭和十五)には、沖縄県学務部の推進する標準語励行運動を日本民芸協会の柳宗悦(むねよし)らが手きびしく批判した方言論争が一年余にわたって展開され、中央の論壇にまで波及したこともある。しかし、地域の固有の文化である方言を蔑視(べっし)する風潮は、いよいよ高まるばかりであった。沖縄戦のとき、米軍上陸まもない四月九日に出された「球軍会報」(沖縄守備軍第三十二軍の命令伝達)では、「爾今(じこん)軍人軍属ヲ問ハス標準語以外ノ使用ヲ禁ズ、沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜(かんちょう)トミナシテ処分ス」としている。方言を使うことがスパイと見なされるという、極端なところまでいきついたのである。

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