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 日中戦争

蘆溝橋
 一九三七年(昭和十二)七月七日、北京郊外の蘆溝橋(ろこうきょう)付近で日中両軍の衝突事件が起こり、全面的な戦争へ拡大していった。この事件は、演習中に蘆溝橋をはさんで対峙(たいじ)していた中国軍から射撃をうけ、一人の日本軍兵士が行方不明になったことから起きている。
 じつは、この行方不明の兵士は、用便に出て、のちに隊列にもどっていたが、日本軍は蘆溝橋からの撤退を拒否した中国軍を攻撃して大戦争になったものである。
 戦線は中国全土に展開し長期戦の泥沼にふみいっていった。日中戦争である。当時、この侵略戦争を支那事変あるいは「日支事変」(日華事変)と言った。敗戦当時、中国にあった日本軍の総兵力は一〇五万人を数えた。
 ここに、南京攻略における二人の軍人のエピソードを紹介しよう。

 ひとりは、沖縄戦における第三十二軍司令官・牛島満である。当時は第一〇軍第六師団の歩兵第三六旅団長で陸軍少将であった。第三六旅団は鹿児島四五連隊・都城二三連隊の将兵で編制された部隊である。『沖縄軍司令官 牛島満伝』に、次のような記述がある。

 「(昭和十二年十二月)十一日夜から十二日の払暁(ふつぎょう)にかけて牛島旅団長指揮下の歩兵第二三連隊は雨花台の北端、南京城西南角直下に、また歩兵第四五連隊は水西門西方三キロメートルの上河鎭の線に到着していた。十二月十二日正午、第二大隊は上河鎭南側の流れに沿って東進を開始した時、牛島旅団長の攻撃命令が発せられた。
 この命令こそ、郷土部隊を「チェスト行け部隊」としてその勇名をとどろかせることになった命令である。
 牛島本部隊命令
一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京城西南角を奪取せんとす。
一、古来、勇武をもって誇る薩隅日(さつぐうにち)三州健児の意気を示すは、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
 チェスト行け。
 昭和十二年十二月十二日 一〇時
    旅団長 牛島満

 〈チェスト、行けっ〉は薩摩伝統のかけ声である。薩摩隼人(はやと)が乾坤一擲(けんこんいってき)、奮迅(ふんじん)一番の瞬間に、思わず発する腹の底からの気合である。…このチェスト行け命令を受けた第三六旅団の各将兵は、いやがうえにも奮いたった」

 この第六師団第二三連隊こそは、南京大虐殺の部隊であった。
 もう一人は、沖縄戦における参謀長・長勇少将である。当時は中支那方面軍情報参謀兼上海派遣軍参謀で、陸軍中佐だった。長勇が友人の藤田勇に語った話を、徳川義親が次のように記録している(徳川義親『最後の殿様』)。

 「日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江(ようすこう)沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。
 それで長中佐は激怒して、〈人を殺すのはこうするんじゃ〉と、軍刀で兵士を袈裟(けさ)がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮(さつりく)になったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田は驚いて、〈長、その話だけはだれにもするなよ〉と厳重に口どめしたという。」

 牛島と長の言動は、そっくり沖縄戦に再現されたのである。
 日中戦争がはてしなく広がるなかで、政府は「国民精神総動員計画実施要項」を発表し「挙国一致」・「尽忠報国」・「堅忍持久」のスローガンのもとに、隣保班組織などを通して全国的な運動を推進した。紀元節の家庭奉祝、愛国債購入、英霊の奉迎行事の励行、「愛国行進曲」などの国民歌や軍歌の普及がはかられた。
 沖縄県では、政府の指示にしたがって知事を長とする「国民精神総動員実行委員会」をつくった。最初の頃は「日本精神」および「敬神思想」の発揚といった観念的な教化運動が中心であったが、戦争の長期化と深刻化とともに、貯蓄奨励、貴金属供出、資源回収、生活刷新というように、次第に庶民生活の細部に干渉していった。

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