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 満州事変

 一九三一年(昭和六)九月十八日、満州南部の中心都市奉天(現在の瀋陽)の東北方にあたる柳条湖(りゅうじょうこ)で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破され、この直後、日中両軍が衝突した。この衝突をきっかけに、満州に駐屯していた関東軍は、戦線を拡大し四日間で満鉄沿線、ついで中国東北部の主要な都市を占領した。「満州事変」である。
 東京朝日新聞は次のように報道している(九月十九日付)。
 「本日午後十時半、北大営の西北において暴戻(ぼうれい)なる支那兵が満鉄線を爆破し、我が守備隊を襲撃したので、我が守備隊は時を移さずにこれに応戦し、大砲をもって支那兵を砲撃し、北大営の一部を占領した。」
 この報道を読むかぎり、「満州事変」の発端、責任は中国側にあり、日本側は自衛のために応戦したと受け取られる。日本国民は、そう信じたのである。
柳条湖の「炸弾碑」とそこを通る列車
 しかし、この満鉄爆破の陰謀は、関東軍の参謀、板垣征四郎・石原莞爾(かんじ)・奉天特務機関長の土肥原賢二と機関員花谷正少佐らによって計画され、奉天独立守備隊に属する河本末守中尉が部下数人とともに実行したといわれている。関東軍から事前に計画を知らされていた朝鮮駐屯の日本軍も、ヤールー(鴨緑江(おうりょくこう))を越えて満州に攻めこんでいった。この陰謀には陸軍参謀本部第二ロシア班長橋本欣五郎中佐らを中心とするグループも加担していた。
 謀略の中心人物・石原莞爾中佐は、満鉄爆破直前の五月に執筆した『満蒙問題私見』のなかで、次のように述べている(山田朗編『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)。
 「満蒙ヲ我領土トナスコトハ正義ナルコト」
 「我国ハ之(これ)ヲ決行スル実力ヲ有スルコト」
 「国家カ満蒙問題ノ真価ヲ正当ニ判断シ其解決カ正義ニシテ我国ノ業務ナルコトヲ信シ、且(かつ)戦争計画確定スルニ於テハ其動機ハ問フ所ニアラス。期日定メ彼(か)ノ日韓併合ノ要領ニヨリ満蒙併合ヲ中外ニ宣言スルヲ以テ足レリトス。然(しか)レ共(ども)国家ノ状況之(これ)ヲ望ミ難(がた)キ場合ニモ若(も)シ軍部ニシテ団結シ戦争計画ノ大綱ヲ樹テ得ルニ於テハ謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主導トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス」
 関東軍は、かねてから「満蒙併合」の戦争計画を考えていたのである。関東軍は謀略によって満鉄の線路を爆破しておきながら、「暴戻(ぼうれい)なる支那兵が満鉄線を爆破し」と宣伝しこれを口実に戦線を「満州」全域に拡大していった。関東軍と呼応して軍中央は、関東軍の行動を「至って当然なこと」と認めた。
 政府(若槻(わかつき)内閣)は、不拡大の方針を打ち出し、外交ルートでの解決を主張したが、関東軍は政府・軍中央を無視して独走し、ついに政府も軍部の圧力に屈した。
 一九三二年(昭和七)三月一日には、関東軍の指導のもとに「満州国」の建国を宣言し実質的に日本の支配下においた。現在の黒竜江(こくりゅうこう)省・吉林(きつりん)省・遼寧(りょうねい)省・内モンゴル自治区などの範囲である。
 このような日本の侵略行為に対し、国際連盟では満州事変の処理に関する国際連盟調査団(イギリスのリットン卿を団長とする調査団)を派遣して調査させた。十月に提出されたリットン報告書では、「満州事変は日本の侵略」であり、「中国の主権のもとに満州に自治政府を樹立して国際管理下に置くこと」を提案した。日本はこの提案に反対し、国際連盟に意見書を提出したが否決され、松岡洋右(ようすけ)代表は議場を退席した。
 一九三三年(昭和八)二月二十四日、国際連盟の特別総会が開かれ、リットン報告書採択・満州国不承認の対日勧告案が採択された。ついに日本は一九三三年三月二十七日、国際連盟を脱退し、国際舞台での孤立化を深めていった。
 この満州事変は、アジア太平洋に果てしなく戦線を広げていく十五年戦争の始まりであった。この柳条湖(りゅうじょうこ)事件について、国民は中国側が満鉄を爆破したのだと信じこまされていた。
 国内では、軍部や民間右翼・超国家主義者らの主導によって戦時体制が強められていった。満州事変の起きた年には参謀本部や陸軍省の中堅将校たちが結成した桜会によって、クーデターが企てられたが失敗した(三月事件・十月事件)。このメンバーの中に、のちの沖縄戦における参謀長・長勇(ちょういさむ)がいたことは記憶されるべきだろう。青年将校らによるクーデター事件が続けざまに起こり(五・一五事件、二・二六事件)、日本の社会は次第に軍国主義の潮流におおいつくされていった。
 国際的に孤立を深めていくなかで、日本はナチス・ドイツやファシズムのイタリアと結んで世界制覇の野望を露骨にしていった。一九三六年(昭和十一)十一月には日独防共協定を結んだ。
 この年に、沖縄県では宮古島の上野村宮国の浜辺に「独逸(ドイツ)商船遭難之地」の碑を建立して、ドイツとの同盟関係を大々的にアピールした。碑銘は近衛文麿が揮毫(きごう)し、除幕式にはドイツ大使館の高官らも出席している。ドイツ商船ロベルトソン号が宮古島宮国沖合で遭難して救助されたのは一八七三年(明治六)のことであり、日独防共協定とは何ら関係のないことであったが、たくみに利用したものである。その翌年には、文部省が全国に公募した「知らせたい美しい話」のなかから、ドイツ商船ロベルトソン号遭難救助の史実が一等に選ばれた。文部省は、尋常小学校の修身教科書に「博愛」という題で掲載し、全国の児童に紹介した。「博愛」の史実が侵略戦争の宣伝に悪用された事例である。
 一九四〇年(昭和十五)には、日独伊三国同盟が締結された。

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