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 ヴェルサイユ体制

 第一次世界大戦が終わって、一九一九年六月に、フランスのヴェルサイユ宮殿で、連合国とドイツとの間に「ヴェルサイユ平和条約」がむすばれた。条約は、ドイツの賠償義務などのほか、国際連盟規約、労働協定などをふくみ、戦後の国際安全保障体制(ヴェルサイユ体制)の基礎となった。講和会議では、膠州(こうしゅう)湾・山東省におけるドイツの全権利を日本に引き渡すことを決定したが、中国は「対華二十一か条要求」の取消しと山東省権益の還付(かんぷ)を要求して対立した。中国はヴェルサイユ平和条約の調印を拒否し、中国各地で排日運動が激発した。
 日本海軍が占領した旧ドイツ領の南洋群島は、ヴェルサイユ平和条約によって日本の委任統治領となった。米領のグアム島をのぞくマリアナ・カロリン・マーシャルの群島について、国際連盟は一九二〇年十二月、「C式委任統治」条項を決定、正式に日本の委任統治が発足した。C式委任統治というのは、土地が狭く人口が少なく、かつ、住民の政治的能力のない地方に適用されるもので、住民の利益のために一定の保障を与えることを要するという条件のほか、受任国領土の構成部分として、その国法の下に施政を行うべきものと定められていた。
 日本は一九二二年三月、パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置した。日本は、国策会社の南洋興発(株)のもとに製糖事業などの大規模な開発に乗り出し、入植者を送りこんだ。入植者は、沖縄県人がもっとも多かった。一九四一年の統計によると南洋群島の総人口一三万五千人のうち、日本人は八万四千人であった。南洋群島は、アメリカに対する最前線として重視され、サイパン島・パラオ諸島・トラック諸島には海軍を主体として軍事基地がおかれた。
 日本は、一九三三年三月に国際連盟脱退を通告、二年の予告期間を経て一九三五年三月に国際連盟から離脱した。しかし、国際連盟は、連盟脱退後も日本の委任統治継続を承認した。
 第一次大戦後の世界は、軍縮と平和の時代と言われている。事態の推移は、「ヨーロッパの没落」、「アメリカの世紀の始まり」でもあった。アメリカは、「中国の門戸開放・機会均等」の原則を列国に承認させ、日本の「勢力範囲設定主義」を否認した。
 ワシントン会議(一九二二年)によって「海軍軍縮条約」や「九カ国条約」などを締結して、日本の「軍備拡張と中国への侵略」を抑制しようとした。
 しかし、軍縮と平和の理念の主張だけでは、世界は動かなかった。ヨーロッパの復興にともなって、戦争景気を謳歌してきたアメリカと日本は、深刻な不況に見舞われることとなった。日本では、戦後恐慌・震災恐慌・金融恐慌・そして世界大恐慌へとつきすすんでいった。
 ドイツでは過重な賠償負担で苦しみ、政治も経済も軍事もファシズムの方向へと動いていった。
 アジア・太平洋地域においては、日本はワシントン体制を無視しながら中国大陸への膨張・侵略を推し進めていった。

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