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 中国への権益拡大と列強との対立

 第一次世界大戦(一九一四年七月〜一八年十一月)から満州事変勃発(一九三一年九月)までの、十数年間におけるアジア太平洋地域の国際関係と軍事情勢を概観してみよう。
 第一次世界大戦は、連合国(イギリス・フランス・ロシア・日本・イタリア・アメリカなど二三か国)と同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・トルコ・ブルガリアの四か国)が戦った最初の世界戦争であった。
 一九一四年七月にヨーロッパで戦争が始まると、日本は日英同盟に従って、八月二十三日、ドイツに宣戦布告をした。
 日本は参戦すると、中国山東省のドイツ租借地膠州(こうしゅう)湾を攻撃して青島(チンタオ)(膠州湾口にある港湾・工業都市)を占領、済南(さいなん)に進出して山東鉄道と鉱山を接収した。済南は山東省の省都で黄河(こうが)の下流南岸にあり、水陸交通の要地であり、鉄鋼・機械などの重化学工業都市であった。日本の海軍南遣(なんけん)支隊はドイツ領の南洋群島を占領し、トラック諸島に司令部をおいて軍政を施行した。日本海軍は連合国の補給路の整備を担当し、太平洋水域ばかりでなく、インド洋、地中海にも出撃した。
 欧米列強の勢力が中国から一時後退している機会に乗じて、大隈重信内閣は中国における権益の拡大をめざして、一九一五年一月、対華二十一か条の要求を袁世凱(えんせいがい)政府につきつけた。その内容は、山東省を日本の勢力範囲におさめる要求、南満州・東蒙古における排他的地位を強化するための諸要求、中国福建省の外国への不割譲・不貸与の要求、中国政府に日本人の軍事・財政などの顧問をおいて日本の兵器の供給をうけることなどの諸要求であった。
 中国側は、この要求に頑強に抵抗し、アメリカ・イギリス・ロシアなども日本の不当な要求を非難した。しかし、日本は五月七日を期限とする最後通牒を伝え、中国政府を屈伏させた。五月七日は、中国の〈国恥(こくち)記念日〉となり、日中関係は決定的に悪化した。
 大戦のさなか、一九一七年十一月、ロシアに社会主義革命がおこり、一九一八年三月、ドイツとの間に単独講和を結んだ。同年八月、連合国はアメリカの提唱で、チェコスロバキア軍捕虜救済を名目にシベリア出兵を決定した。シベリア出兵の兵員総数は二万五千人で、そのうち日本軍は一万二千人の約束であったが、日本は約束を無視して七万二千人を派遣し、東部シベリアを制圧した。しかし、パルチザン(労働者・農民のゲリラ部隊)の抵抗や連合国人民の干渉反対運動のため、干渉軍の戦意は低下し干渉戦争は失敗した。
 アメリカは一九二〇年一月に撤兵を声明、他の連合国軍も六月までに完全に撤退した。日本だけは、居留民保護、朝鮮・満州への革命の波及を防止するということを口実に、数万の兵士をとどめた。ロシア人民の抵抗はいよいよ激しく、日本国内の干渉反対運動の高まり、列強の圧力もあって、ついに一九二二年十月に撤兵した。シベリア出兵で日本軍の死者は三千五百人で、重大な敗北であった。
 一九一八年十月、オーストリアとドイツで革命が起こり、ドイツが降伏して休戦となり、大戦は終わった。

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