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 朝鮮半島から中国大陸へ

 日本は、日清戦争(一八九四〜九五年)の勝利によって、朝鮮半島から清国の影響力を排除し、台湾を領有することとなった(下関条約)。また、日露戦争(一九〇四〜〇五年)によって、南満州の権益を獲得すると同時に、日韓議定書や日韓保護協約(一九〇四年)を大韓帝国に押しつけて韓国併合への一歩を踏みだした。そして一九一〇年(明治四十三)には「韓国併合ニ関スル条約」を強要して大韓帝国を併合し、日本は朝鮮半島を完全に植民地とした。
 特筆すべきは「南満州鉄道株式会社」(満鉄・まんてつ)と「関東軍」の設置である。
 日本は、一九〇五年(明治三十八)のポーツマス条約により、「長春と旅順を結ぶ鉄道」とその支線、および撫順(ぶじゅん)・煙台(えんたい)その他の炭鉱経営の利権をロシアから獲得した。
 これらの事業を経営する国策会社として一九〇六年(明治三十九)に設立されたのが「満鉄」である。「満鉄」の主要な業務は、南満州における鉄道の独占経営であったが、鉄道付属地として広大な農地を経営した。

関東軍特別演習(「関特演」)、 実弾を持っての秘密演習 (3枚とも宮城※※氏提供)
満州原野の重戦車群
満州にて、野砲、山砲の演習

 「満鉄」は、鉄道とともに撫順(ぶじゅん)など五つの大炭鉱、鞍山(あんざん)製鉄所、独占的な商業部門を持っていた。一九三〇年代になると、製鉄・化学工業・軽金属・鉱業・自動車・商事・運輸・保険・土地などの各部門に事業投資をおこない、子会社を八〇社もかかえる一大コンチェルンを形成した。満州経営は「満鉄」を中核として、独占的に運営されたのである。
 満鉄を守備するために一九〇七年(明治四十)に満州独立守備隊がおかれ、一九一九年(大正八)に「関東軍」が創設されると、その基幹部隊となった。満州事変の発端となった「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」は奉天(ほうてん)駐屯の守備隊によって起こされたものであった。
 いまひとつ、日本は、「ロシアが清国から租借(そしゃく)していた遼東(りょうとう)半島(旅順(りょじゅん)・大連湾)の租借権」を引き継ぐこととなった。「租借」というのは、他国の領土の一部を借りて一定期間統治することである。遼東半島は中国東北地区の南部に突出する半島で、山東半島と相対して黄海(こうかい)と渤海(ぼっかい)を分けている。日本は、ロシアから引き継いだ遼東半島を「関東州」と呼び、関東都督府を置いて統治した。
 ロシアの遼東半島に対する租借権は二五年の期限で一九二三年(大正十二)に満期となるものであった。日本は、第一次大戦中の一九一五年(大正四)に「対華二十一か条要求」を中国に強要し、期限は九九年に延長され(一九九七年満期)、統治の全権を握った。朝鮮を植民地とし、遼東半島を租借することによって、日本は大陸への権益の拡大をはかり、侵略の拠点を築いた。
 一九一九年(大正八)には、関東都督府(関東都督)は関東庁(行政)と関東軍に分離、関東軍は満州に駐屯する陸軍部隊の全部を統括した。軍司令部は、遼東半島西端の軍港・旅順にあったが、満州事変後は満州国の首都となった新京(長春)に移り、関東軍司令官は駐満全権大使・関東庁長官をかねた。
 一九四一年(昭和十六)六月にドイツとソ連が戦争状態になると、関東軍特別演習(関特演・かんとくえん)という名目で七〇万人の大部隊を満州に動員した。満州はソ連に対する作戦地として姿を一変したのである。「演習」といったのは、対ソ作戦準備であることを隠すためであった。日本は一九四一年四月に「日ソ中立条約」を結んでいたので、この関東軍特別大演習は中立条約を侵犯するものであった。

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