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第一章 太平洋戦争と沖縄戦
安仁屋政昭

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 太平洋戦争

 日中戦争の長期化の矛盾が深刻になり、日本軍は東南アジアへの進出によって事態を打開しようと、フランス領インドシナ半島(現在のベトナム)へ進駐し、戦線を南方へ拡大していった。このため、アメリカとの対立が激化した。
 一九四一年(昭和十六)春から日米交渉が行われてきたが解決のみちがなく、対立は深刻になっていった。日本の仏印進駐に対し、アメリカは屑鉄・石油の対日輸出禁止を強化し危機は深まった。日米交渉を続けているさなか、日本は対米戦争の準備を進めていた。さらに、イギリス、オランダも日本の在外資産の凍結と石油の対日輸出の全面禁止措置をとったため、アメリカ(A)、イギリス(B)、中国(C)、オランダ(D)の頭文字をとって名付けられた「ABCD包囲網」の脅威が宣伝され、国民の敵愾心(てきがいしん)をかき立てる役割を果たした。
 政府は、十一月五日の御前会議で「アメリカ・イギリス・オランダとの戦争」を決意して「帝国国策遂行要綱」を決定し、「武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ、陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」としている。御前会議は、「天皇出席のもとに開かれる、重要国政に関する最高会議」である。この決定にもとづいて、海軍は連合艦隊に作戦準備を発令し、真珠湾奇襲の艦船は千島列島のエトロフ島ヒトカップ湾に集結、陸軍は海南島や各地の根拠地で出撃準備を始めた。
 いっぽう、日米交渉にあたったアメリカ政府のハル国務長官は、十一月二十六日、アメリカ側の最終案の覚書を日本政府に提示してきた(ハル・ノート)。その概要は、日本軍の中国・フランス領インドシナからの撤退、諸外国との不可侵条約の締結、中国重慶政府(国民党政府)の承認、などを求めるものであった。
 日本政府はハル・ノートを拒否し、直ちに臨戦態勢に入った。
 南雲(なぐも)忠一海軍中将にひきいられた連合艦隊は、一九四一年(昭和十六)十一月二十六日、エトロフ島のヒトカップ湾をひそかに出航してハワイの真珠湾攻撃へ向かい、山下奉文陸軍中将の指揮する第二五軍は、十二月四日、海南島の三亜(さんあ)港を出てマレー半島攻撃に向かっていた。
 「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。一九四一年十二月八日午前七時の臨時ニュースである。
 陸軍は、東京時間十二月八日午前二時ごろ、英領マレー半島のコタバルに上陸、連合艦隊は、東京時間十二月八日午前三時二十分(ハワイ時間七日午前七時五五分)、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃して太平洋戦争に突入したのである。
 緊張と不安の空気が日本中を支配した同日午前十一時四十分、「天佑(てんゆう)ヲ保有シ万世一系ノ皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」にはじまる宣戦の詔書が、ラジオから流れた。攻撃を開始してから約八時間もたってから宣戦の詔書が公表されたのである。

 宣戦の詔勅

 詔書

天祐ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ総力ヲ擧ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
 抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國卜釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構へテ東亜ノ平和ヲ撹亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相クヲ悛メス米英両國ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰へ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與へ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ亳モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
 皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
御名 御璽
昭和十六年十二月八日

 詔書のなかで天皇は、自存自衛のため、やむを得ず宣戦の布告をしたのであって、「大東亜の安定と解放のための正義のたたかい」であると国民に強調し、「億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦(せいせん)ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」と国民に命令した。つづく「米太平洋艦隊は全滅せり」のニュースは日本中をわきたたせた。一日中、ラジオが興奮した放送をつづけ、街には号外の鈴がなりひびいた。
 日本は、真珠湾攻撃開始の三十分前に、ワシントン時間十二月七日午後一時に日米交渉打切りをアメリカ国務省に通告するつもりであったが、野村大使がハル国務長官に覚書を手渡したのは、真珠湾攻撃から一時間後の十二月七日午後二時二十分(ハワイ時間午前九時二十分)であった。しかも、この文書は、単に交渉打切りを宣言したのみで、開戦の意思は明示していなかった。イギリスに対しては、まったく事前の通告なしにマレー半島の攻撃を開始したのであった。
 戦後になって、野村大使は次のように述べている(野村吉三郎『米国に使して』)。

 「十二月七日(日曜日)、我が政府の回答をワシントン時午後一時を以て先方に手交すべき旨の訓令に接したが、暗号の解読及びタイプライチング等々間に合わずして午後二時国務省に着し、暫(しばら)く待ち合わして午後二時二十分、国務長官室に入った。
 余より〈午後一時此の回答を貴長官に手交すべく訓令を受けた〉と申したところ、国務長官は〈何故一時か〉と訊(たず)ねたるも〈何故なるかを知らず〉と答えた。我方の回答を一読したる上、非常に憤激したる面持にて〈自分は過去九個月常に信実を語って居った。斯(か)くの如く偽(いつわ)りと歪曲(わいきょく)に満ちた公文書を見たことがない〉と述べた。…国務省より帰邸後ハワイ奇襲の報に接したが、ハル長官は既に当時これを承知して居ったか否かは其の当時余は之(これ)を知らなかった。その後の情報によれば、長官はホワイト・ハウスより電話にて概報を得てゐたやうである。」
当時、市中のあちらこちらに立て掛けられた金属製の看板(南京大虐殺記念資料館提供)
 政府は、開戦から四日後の十二月十二日の閣議で、「今次の対米英戦は、支那事変を含め大東亜戦争と呼称す」と決定した。この呼び方は、「大東亜新秩序建設」という戦争目的を示すものであり、戦争の地域を限定するものではない、と発表した。これは、アジア全域を支配しようという意図を示すものであった。
 開戦から半年の間は、日本軍は破竹の勢いで進撃を続けた。十二月十日には、南洋群島のアメリカ領グアム島を占領、フィリピンのルソン島にも上陸した。日本軍は一九四二年(昭和十七)の前半までに、フィリピン・マレー・ビルマ・インドネシアからビスマルク諸島にいたる東南アジアのほとんどの地域を占領した。奇襲の利、地理的条件の優位、兵力・装備における集中の利をもつ日本軍の作戦であった。
 しかし、一九四二年の夏から戦局は逆転していった。準備をととのえた連合軍の反撃が始まりミッドウェー海戦・ガダルカナル島攻防戦において戦局の主導権はアメリカ・イギリス等の連合国軍側に移った。戦争資源においても、国内生産力においても圧倒的優位に立つ連合軍の戦力が増強されたのに対して、日本軍の戦力は低下し、ソロモン群島・ニューギニア方面、南洋群島方面から進攻するアメリカ・オーストラリア軍のため次々と要地を奪われていった。米軍の潜水艦による輸送手段の遮断、空襲による生産設備・港湾・鉄道の破壊、さらに都市の無差別爆撃によって戦争能力は格段に低下した。
 一九四四年(昭和十九)に入ると、南洋群島のマーシャル諸島・トラック諸島が相ついで攻略された。「帝国の絶対国防線」と言われたマリアナ諸島も攻撃され、七月にはサイパン島が玉砕した。
 南進国策にのって南洋群島に移住していた約七万人の沖縄出身者は軍と運命をともにした。とくにサイパン玉砕においては六千人以上の県出身者が死んで県民に衝撃を与えた。
 一九四四年秋にはマッカーサーにひきいられた連合軍がフィリピンにせまり、レイテ作戦に着手した。フィリピンも沖縄県民の重要な移民地で、このとき約二万人の県出身者がいた。フィリピン移民は、太平洋戦争において二度にわたって戦火にまきこまれている。一度は開戦時の日本軍のフィリピン攻略のとき、二度めはマッカーサーのフィリピン反攻のときである。

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