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 十・十空襲

 アメリカ機動部隊は、レイテ作戦を前にして一九四四年(昭和十九)十月十日、南西諸島に大空襲を敢行した。マーク・A・ミッチャー中将の指揮するアメリカ第五八機動部隊は、空母九隻、戦艦五隻、軽空母八隻、巡洋艦一四隻、駆逐艦五八隻からなる大部隊であった。空襲は午前六時四十分から午後四時すぎまで、五波にわたって延べ一三五六機の艦載機が攻撃をくりかえした。空襲は奄美大島・徳之島・沖縄諸島・宮古島・石垣島・大東島などの飛行場と港湾施設に集中した。特に那覇の被災は市街地の九〇パーセントを焼きつくすほど大きく、死傷者は軍民あわせて約一五〇〇人にのぼった。
 この十・十空襲のときの日本軍(沖縄守備軍)と住民の関係は、次のように記録されている(細川護貞『細川日記』、昭和十九年十二月十六日付)。
 「人口六十万、軍隊十五万程ありて、初めは軍に対して皆好意を懐(いだ)き居(お)りしも、空襲の時は一機飛び立ちたるのみにて他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十五里先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺(さんたん)たる有様にて今に到るまでそのままの有様なりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し婦女子は凌辱(りょうじょく)せらるる等、恰(あたか)も占領地に在るが如き振舞いにて、軍規は全く乱れ居(お)れり。
 指揮官は長某にて、張鼓峰(ちょうこほう)の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従い戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒みること能わざるを以て、自活すべしと広言し居(お)る由(よし)」

 この中に出てくる「長某」というのは、沖縄守備軍参謀長・長勇のことである。長勇は一九三〇年(昭和五)に桜会に加盟し、クーデターによる国家改造をめざす陸軍青年将校の主要メンバーであった。日中戦争の始まった一九三七年(昭和十二)には中佐で、上海派遣軍参謀で中支那方面軍参謀を兼ね南京大虐殺を指揮した一人である。一九三八年(昭和十三)には連隊長として張鼓峰(ちょうこほう)事件(東部満ソ国境における日ソ両軍の衝突)の当事者となった。
 沖縄戦では、積極攻撃論を主張し、持久戦論の立場をとる八原博道大佐(高級参謀)と対立した。長勇参謀長の発言は、その後の沖縄県民の悲惨な運命を暗示していた。

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