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 難民収容所

 中南部で戦闘が続いていた一九四五年(昭和二十)五月、六月、七月にかけて、米軍は保護下に入った住民をトラックやLST(上陸用舟艇)で沖縄本島北部の東海岸地域へ移した。その住民移動は中南部の臨時収容所を転々とさせられたものであった。
 難民収容所は、いずれも毎日の人口移動が激しく、その実数を明確につかむことは難しい。北部地区における難民収容所の概略は次のとおりである。

*大宜味村喜如嘉の難民収容所
 最北端の難民収容所である。収容されたのは地元の国頭村・大宜味村・東村の住民と沖縄戦の直前に中南部から来た避難民であった。約一万人。のちに、収容所の範囲は辺土名から根路銘まで拡大された。
*羽地村田井等の難民収容所
 収容されたのは地元の名護町・羽地村・今帰仁村・本部町・東村の住民と沖縄戦の直前に中南部から来た避難民であった。約五万七〇〇〇人。のちに、収容所の範囲は伊差川から仲尾次、真喜屋、稲嶺まで拡大された。
*中川・漢那(現在の金武町中川と宜野座村漢那・城原)
 五月中旬頃、地元の住民と中南部からの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。伊芸と屋嘉の住民のほとんどは、旧美里村石川(現在の石川市)に収容された。その後中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が、糸満・豊見城・宜野湾村野嵩・中城村安谷屋・越来村などの臨時収容所を経て送りこまれた。収容所は、漢那の本部落と城原・中川地区に分かれていたが、行政は漢那市となっていた。難民の数は約三万人。中川地区には、沖縄戦終焉の地である島尻方面から移された難民が多かった。
*宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)
 五月中旬頃、地元の住民と玉城村・東風平村・南風原村・大里村・佐敷村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていたが、行政は宜野座市・惣慶市・福山市となっていた。難民の数は約四万人。宜野座収容所には米軍の野戦病院が置かれ、収容所の女性たちは病院の看護助手として働らかされ、男性は死者の埋葬に追われた。福山の共同墓地死亡者名簿で見ると、六〇三人の死者が確認されている。
 一九八四年(昭和五十九)の夏、村中央体育館の建設にあたって、宜野座村では米軍野戦病院の集団埋葬地で収骨作業を行い、一六一柱を収骨した。もちろん、これが収容所での死亡者の全てではない。
 宜野座・惣慶・福山の収容所で死んだ難民は、中南部全域の市町村の出身者であった。一九四五年(昭和二十)九月に宜野座市・惣慶市・福山市を統合して宜野座市となった。
*古知屋(現在の宜野座村松田)
 五月中旬頃、地元の住民と玉城村・佐敷村・東風平村・南風原村・大里村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が、幾つかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、潟原・古知屋・高松・前原・兼久のブロックに分かれていたが、行政は高松市と古知屋市となっていた。難民の数は約三万五〇〇〇人。六月から十二月にかけて、多くの飢餓難民が死んだ。
 死没者名簿で確認されただけでも四二七人、死者の八割は幼児と高齢者であった。
*大浦崎(現在のキャンプ・シュワブ一帯から旧久志村久志・辺野古)
 本部半島で米軍の保護下に入った今帰仁村民・本部町民、今帰仁村に疎開していた伊江村民・宜野湾村民などを収容した(四月下旬頃より)。旧久志村の久志・辺野古の住民もあわせて収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が送りこまれた。難民の数は約三万人。一時、久志市となっていた。
 古知屋も福山も中川も、食糧増産のために、沖縄県直営の金武開墾が計画された場所である。未墾の原野が難民収容所となって、多くの難民が飢えて死んだ。
*瀬嵩(旧久志村の二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽)
 七月中旬頃から、地元の住民と、中城村や西原村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。収容所の中心は瀬嵩であった。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が送りこまれた。難民の数はおよそ三万人。

 「二見情話」は、首里出身の照屋朝敏が、二見を去るにあたって、運命をともにした人びとへの思いをこめて作詩作曲した新民謡で、老若男女の哀感をさそった。なお、二見は一時期、「東喜(とうき)」と呼ばれた。

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