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 捕虜収容所

 沖縄本島と周辺離島で米軍の捕虜となった軍人・軍属は、金武村屋嘉のPW収容所に隔離収容された。PW収容所は読谷山村、北谷村、浦添村、那覇市奥武山にもあったが、屋嘉が最大のPW収容所で約一万人余が収容されていた。その内訳は本土出身兵約五〇〇〇人、沖縄県出身兵(防衛隊員含む)約四〇〇〇人、残りは朝鮮人軍属(軍夫)であった。
 なお、那覇の奥武山(現在の奥武山公園一帯)には、南部戦線で捕まった捕虜と宮古・八重山から移送された捕虜がおり、米軍の指示で那覇軍港の港湾荷役(にやく)に使役(しえき)されていた。
 PWたちは、米軍の陣地構築や運搬作業に従事させられながら、対日戦の推移を注視し、極度の不安におびえていた。
 米軍は、一般の難民収容所から軍人(正規兵、防衛隊員)と軍属・学徒隊員などを摘発し、PW収容所へ送った。南部戦線では戦闘が続いていた六月以降に、屋嘉のPW収容所から沖縄出身者約三〇〇〇人と朝鮮人軍夫が選抜されて、ハワイの捕虜収容所へ送られた。本土決戦を想定して、捕虜交換用にハワイに隔離しておいたものだという指摘もあるが、真偽(しんぎ)のほどは定かでない。

 「あわり屋嘉村ぬ 闇ぬ夜ぬガラシ
  親うらん我身(わみ)ぬ 泣かなうちゅみ」

という「屋嘉節(やかぶし)」は、捕虜収容所に閉じ込められた男たちが、敗戦の悲哀と故郷の荒廃を嘆いた歌で、戦争体験の原点として歌いつがれている。
 八月には日本はポツダム宣言を受諾して降伏、沖縄出身捕虜は、十月から帰村が許された。朝鮮人は戦勝国なみの待遇を受けて故国と北九州へ送還された。日本本土出身兵は一九四六年(昭和二十一)夏に送還が始まり、年内に送還が完了した。
 その後、屋嘉のPW収容所は米軍のレクリエーション・センターとなり、屋嘉ビーチと呼ばれた。

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