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 捕虜と難民 ―収容所の開設

 米軍は占領地域を広げていくごとに、保護下に入った住民を臨時に設けたキャンプ(収容所)に送った。一般住民の収容所は、沖縄本島に一一か所、周辺離島に五か所、合計一六地区を設定した。収容所は適宜につくられ、移転させられ、また合併されたりした。沖縄本島の収容所は、辺土名地区、田井等地区(羽地村)、宜野座地区、石川地区、前原地区に集中していた。
 沖縄戦直前からヤンバルに疎開していたいわゆる「避難民」と米軍が中南部から移送した「難民」と地元民が雑居していた。宜野座地区には、当時生き残った沖縄本島人口のほぼ三分の二に相当する二〇万人以上の難民が押しこめられていた。
 米軍は、沖縄攻略作戦を実施するにあたり、多くの軍政要員を実戦部隊とともに送りこみ、住民対策にあたらせていた。
 米軍は、沖縄上陸作戦と同時に本土進攻にそなえて航空基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯を無人地帯とした。このため、中南部で米軍の管理下に入った住民は、北部の東海岸地域へ移された。現在の石川市、金武町中川、宜野座村全域、旧久志村(久志・辺野古から嘉陽)の地域であった。
 米軍は、捕虜(軍人・軍属)と民間人(非戦闘員)を選り分け、それぞれ独自に収容した。捕虜収容所と難民収容所である。
 捕虜をPW(Prisoner-of-War 略してPW)と呼び、民間人はシビリアンと呼ばれ、両者を識別するために特に作業現場などでは、上着の背中に、捕虜はPW、民間人はCIVとペンキで書かれた。
 民間人の収容所では、米軍によってメイヤー(市長)とCP(民警察)が任命され、物資の配給、作業の手配、軍命令の伝達などに従事した。
 CPは米軍から支給された軍服に防暑用ヘルメットをかぶり、米軍のMP(憲兵)とともに治安維持にあたった。
収容所では捕虜と民間人を区別するため、民間人には「CIV」と書いた
 難民収容所は、境界をカナアミ(有刺鉄線)で囲われていたところもあったが、一般には集落単位に収容所が設置されていて集落の境界にMPが立っていた。
 収容所間の往来は原則として禁止され、米軍の通行許可証を携帯しない場合は「越境」として処罰され、カナアミに入れられた。カナアミというのは仮の拘置所のことである。カナアミをはりめぐらし脱走を許さなかった。転じて刑務所のことをカナアミと言うようになった。

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