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 沖縄戦の終結

 日本の敗戦とのかかわりで、沖縄戦の終結をどの時期と考えたらいいだろうか。沖縄戦は「いつ始まり、いつ終わったか」という問いかけである。
 沖縄戦は〈島の戦争〉であったから、島ごとに地域ごとに戦闘開始の時期と終結の時期が異なっている。場合によっては、同じ地域の住人であっても、米軍に収容された時期を異にしている。戦後生活の始まりが、それぞれに異なっているということである。
 米軍の第十軍司令部は、六月二十二日、「アイスバーグ作戦」(沖縄攻略作戦)の終結を公式に発表しているが、局地的な戦闘はなお続いていた。
 沖縄戦が実質的に終結したのは七月以降と考えられるが、日本本土では八月六日と九日に広島と長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害を受けている。
 八月九日の午前二時すぎ、原爆搭載機ボックスカー(B29)が、テニアン島のノース・フィールド飛行場を発進した。同機は北へ進路をとり硫黄島上空へ。硫黄島から進路を西にとり、屋久島上空へ到達した。そこで、気象観測機・撮影機と待ち合わせ、第一攻撃目標の北九州の小倉へ向けて九州の東海岸を進んだ。午前九時ごろ、上空を旋回したが雲におおわれて「目視攻撃」ができず、十時三十三分、第二攻撃目標に指定された長崎へ向かった。十時五十八分、長崎上空に到達、長崎市に原爆を投下した。十一時二分に原爆が炸裂して長崎市は火の海となった。九時間以上も飛び続けた同機は燃料ぎれとなり、沖縄読谷山の飛行場に着陸した。ときに午後一時であった。読谷山の飛行場で燃料を補給し、小休止をしたボックスカーは、二十二時五十五分にテニアン島に帰着している。基地沖縄の戦略的な位置を明示する事例といえよう。
 日本軍の沖縄方面への航空作戦は八月下旬まで続けられた。沖縄戦における航空作戦は海軍が主体であった。天号作戦(二月と三月)から菊水作戦(三月十八日から六月二十二日まで)までの海軍の延べ出撃機数は七五六八機(九州から六八一二機、台湾から七五六機)、さらに六月下旬から八月十九日までの海軍の出撃機数は七〇八機である。沖縄戦に投入された日本の航空機は、海軍が延べ約八二〇〇機、陸軍が延べ約二三〇〇機といわれている。ポツダム宣言受諾の後も、陸軍の航空機が八月十五日に鹿児島県の知覧基地から、海軍の航空機は八月十九日に鹿屋基地から沖縄へむけて出撃している。
 ポツダム宣言を受諾して、日本政府は敗戦処理にとりかかっていたが、沖縄ではなお戦闘状態が続いていたことになる。
 「玉音放送」のあった八月十五日、沖縄の各地では、米兵たちが小銃を空へむけて乱射し、「戦争は終わった」といって歓声をあげた。これを見た収容所の難民たちのなかには「日本軍の逆上陸だ!」といって恐怖におののいた人たちもいたという。
 八月二十六日にいたって、沖縄攻略部隊の米第十軍司令部は「九月二日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じるように」連合国総司令部から命令をうけている。これは、九月二日のミズーリ号上における日本の降伏調印をうけて、最終的に沖縄戦を終結に導くものであった。
 九月七日、宮古島から第二八師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍中将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還された。降伏調印の場所は、旧越来村の森根である。三将軍は、アメリカ第十軍司令官スティルウェル大将に対し、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、六通の降伏文書に署名して正式に降伏した。
 降伏文書の内容は、次のとおりである。

〈下記署名の日本軍司令官は、一九四五年九月二日横浜に於いて日本帝国政府に依り執行された全面降伏に基づいて、ここに正式に下記の境界内の琉球諸島を無条件に引き渡すものである〉。
 
 このように見てくると、六月二十二日は牛島司令官らが自決して組織的戦闘ができなくなった日ではあるが、沖縄戦の終結した日でないことが明らかである。
 六月二十三日を「慰霊の日」としたことについても、多くの疑問がある。沖縄戦を「天皇の軍隊」の観点で見るか、民衆の視点で冷静にみつめるかの違いであろう。

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