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 降伏使節団の往来

 日本のポツダム宣言受諾によって、フィリピンのマニラにいたマッカーサー元帥が連合国軍最高司令官に任命された。マニラにおける連合国軍最高司令部と、日本政府および大本営との間に無電連絡が開始された。
マニラへ向かう途中、伊江島飛行場に降り立った日本軍の降伏使節団(米在 Mr. Edward Majewski 提供)
 八月十六日、マッカーサーは、日本政府に対し、「即時停戦」を命ずるとともに、「正式降伏受理の打合せをなすため、軍人顧問を帯同する充分の権限を与えられたる使者」をマニラに派遣するように命令してきた。
 使節団の行程は、次のとおり具体的に指示されていた。
 〈一行は日本飛行機により伊江島の飛行場に至り同地より米国の飛行機により「フィリピン」「マニラ」に輸送せらるるものとす右一行の日本への帰還も同様の方法に依るものとす〉
 八月十九日午前七時十八分、全権委員の河辺虎四郎中将(参謀本部次長)と随員一三名を乗せた無武装の一式陸上攻撃機(双発単葉)二機は木更津飛行場を出発、九州南端佐多岬上空を通過して午後一時すぎ、米軍のP38S誘導機に迎えられて伊江島飛行場に到着した。白い胴体にグリーンの十字マークをつけた降伏使節団の飛行機は、白十字で識別された伊江島飛行場の滑走路に着陸した。使節団は飛行機を乗りついで、現地時間の午後五時五十四分、マニラに着いた。
 河辺全権一行は同夜、「日本軍の武装解除に関する事項」と「占領軍の日本進駐開始を八月二十六日とすること」などの指示を受け、八月二十日、降伏文書と一般命令第一号を受領した。
 降伏文書には、次のようなことが規定されていた。

ポツダム宣言の条項受諾の確認
帝国軍隊の無条件降伏
一切の日本国及日本国民の敵対行為の終止及軍用非軍用財産の毀損防止
一切の陸海軍及行政官吏の離職制限
天皇帝国政府及其の後継者のポツダム宣言条項履行確約
連合国俘虜及被抑留者の解放及保護
天皇及帝国政府の国家統治の権限がポツダム宣言の条項実施の為適当と認むる措置を執るべき連合国最高司令官の制限の下に置かれるべきこと

 これらの文書と命令を受領した使者の一行は、二十日午後一時マニラを出発、伊江島経由で二十一日午前八時三十分、東京にもどった。
 予定より二日おくれて、八月二十八日には、日本占領の米軍先遣隊(航空機四八機、兵員一五〇名)がフィリピンから厚木飛行場に到着している。ついで八月二十九日、マッカーサー元帥はマニラから沖縄読谷山の飛行場に飛来し、三十日に厚木に降り立っている(本書 口絵参照)。そして、九月二日にミズーリ号上での、日本の降伏調印がなされるのである。
 通俗読み物などに、「マッカーサー元帥は、厚木飛行場にバターン号から降り立って、初めて日本の土を踏んだ」などと書いてあるが、沖縄も「日本の国土」であると認識するならば、このような記述は訂正されなければならないだろう。
 沖縄の飛行場に降り立つマッカーサーの傲岸(ごうがん)な姿は、その後の基地沖縄を暗示するものであった。敗戦処理の重要人物が、沖縄を経由してマニラと東京を往来していることは、注目に値する。東京とマニラは、およそ三千キロの距離があり、その中点に沖縄があったわけである。そのころ、沖縄は米軍の完全占領下にあり、沖縄は対日戦の重要な拠点となっていた。
 ところで、連合国の〈占領軍〉を、日本政府は「進駐軍」といった。この連合国軍は、降伏条項の実施と日本統治のために、敗戦国日本の各地に駐屯したのであるから、外国軍隊の一時的な駐留というものではない。歴史の転換の深刻さを見誤らせるものであった。

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