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 終戦交渉と「国体護持」

 一九四五年(昭和二十)八月十五日正午、「玉音」(終戦の詔書)放送によって国民は日本の降伏を知らされた。詔書のなかで天皇は、ポツダム宣言を「非常の措置」としてうけいれ、「忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノ為メニ太平ヲ開カム」とのべ、敗戦の事実をあいまいにしたまま、天皇の力で無事に戦争が終わったことを強調した。侵略戦争を命令し、アジア太平洋の諸民族にはかりしれない惨禍をもたらし、国民を死と飢餓地獄におとしいれた天皇と政府の責任については、まったくふれなかった。
 一九四五年八月九日の御前会議で、「国体護持」(天皇制を護ること)を条件にポツダム宣言の受諾が決定されていたことは広く知られている。
 敗戦時の陸軍大臣・阿南惟幾(あなみこれちか)の日記によると、八月九日の御前会議で、鈴木貫太郎首相が「三国宣言ヲ受諾スルカ玉砕迄ヤルカ」と問い、東郷外相以下各閣僚が賛否の発言をした。十日午前二時半にいたり、いわゆる「聖断」が下った。八月九日付の日記には次のように記録されている。
 「聖断 十日二時半 客月二十六日附三国共同宣言ニ挙ゲラレタル条件中ニハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更セントスル要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ日本政府ハ之ヲ受諾ス」

 以後、連合国との間でポツダム宣言受諾の交渉がつづくのであるが、「無条件降伏」の解釈をめぐって、特に「天皇の国家統治の大権」をめぐって交渉はつづけられた。
 日本政府は、「ポツダム宣言受諾に先立ち同宣言に挙げられたる条件には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるものと了解する」としていた。
 これに対する連合国の八月十一日の最終回答は、「最終的ノ日本国政府ノ形態ハポツダム宣言ニ従ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニヨリ決定セラルベキモノトス」となっていた。これを日本政府は、次のように解釈した。
 「右文書は政体にのみ言及し国体には触れざるものと認めらる即ち〈ポツダム〉宣言第十項において〈民主主義的傾向ノ復活〉と言い居る点よりするも民主主義と天皇統治の国体とは何等矛盾し居らざることを暗黙に承認したるものと解せらる又仮令国体をも含むと解するも前記の如く国民の自由意思により決定せらるるものなれば事実問題として国体の変革を来すが如き処は絶対に之なし」(外務省調書)。

 このような解釈にもとづいて、八月十四日、日本政府は最終的にポツダム宣言の受諾を通告した。連合国は、この通告をもってポツダム宣言の完全受諾と認め、「停戦実施に関し日本側のとるべき措置」を八月十五日にスイス政府を通じて指示してきた。
 この事態は、〈無条件降伏〉であり、〈敗戦〉である。ところが、政府は、これを〈終戦〉とし、「天皇の御聖断によって戦争が終結」したこと、国体が護持されたことを大宣伝したのであった。このことについて、「戦争が終わったことは事実だから、終戦でもいいではないか」という議論もある。しかし、「国体護持」にのみ腐心し、アジア太平洋の諸民族に対する加害責任と国民生活の苦悩について何らの配慮もなかった〈終戦交渉〉には多くの疑問が残る。
 たしかに、一般国民にとっては、「勝とうが負けようが、とにかく一日も早く戦争が終わってほしい」と「終戦を待ちのぞんでいたこと」は事実である。「神州不滅」「一億玉砕」などというスローガンはタテマエであって、本音は「戦争が終わること」であった。しかし、国民の待ちのぞんだ「終戦」と、政府の宣伝した〈終戦〉とは、まったく別の次元のことがらであったことを明確にしておかなければならない。

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