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 北部戦線の避難民

 避難民の集中した北部戦線では、本部半島の山岳地帯を中心に、独立混成第四四旅団第二歩兵隊長宇土武彦大佐のひきいる国頭支隊がその兵力を展開していた。この部隊を一般には宇土部隊と呼んでいる。国頭支隊のなかには、伊江島の井川少佐のひきいる約八〇〇人もふくまれるが、主力は本部半島八重岳を拠点とした三〇〇〇人であった。国頭支隊は防衛隊や学徒隊も指揮下に置いていた。
 国頭支隊は、四月五日頃から米軍との戦闘に入り、約一〇日間の山岳戦の後、本部半島から敗走した。宇土隊長と残存兵士らは、名護羽地の遮断線を突破して、多野岳一ツ岳方面へ撤退した。撤退のとき、武田薬草園(現在の内原部落)一帯で米軍の待ち伏せ攻撃をうけ、多数の死者を出し薬草園内に死体が放置された。
 武田薬草園の役割は、軍事的にも重要な意味を持っていた。薬草園が開設されたのは、一九二九年(昭和四)で、約一八万本の「コカ」が栽培されていた。コカは、外科の麻酔剤である「塩酸コカイン」を抽出する原料である。軍は薬草園について、「軍隊一個師団(戦時編制で約二万人)に相当する」と強調していた。薬草園では、コカの葉を採取して乾燥し、粉末にして梱包し、大阪の武田本社へ送っていた。戦時中には、コカ葉の採取に、県立三中や県立三高女の生徒も動員された。沖縄戦のときには、北部戦線で使用される医薬品が集積されていた。
 宇土大佐はその後、久志村三原へ下り、ウフシッタイ(大湿帯)から東村の有銘・慶佐次を経て福地川(現在の福地ダム)に敗走、さらに国頭村伊湯岳をめざした。このとき、福地川の内福地には、すでに米軍が待ちうけていた。内福地で米軍の待ち伏せ攻撃をうけた宇土部隊は、四散した。同行した県立農林学校の鉄血勤皇隊も配属将校の尚(しょう)謙少尉以下ほとんど全滅している。四月二十八日のことであった。
 宇土隊長は、再び慶佐次に引き返し、米軍に投降するまで、慶佐次を拠点に行動していたが、部隊も解散状態となっていた。米軍に敗れた後の宇土部隊は、南はウフシッタイから北は伊湯岳の間にあって、各地に出没し住民から食糧を奪ったり、スパイ容疑で住民を拷問したり、殺害したりしている。なかには、クリ舟と漕ぎ手を徴発して、与論・沖永良部方面へ脱出し、奄美大島、鹿児島へと逃れた者もいた。
 宇土隊長は八月二十日頃、敗戦(日本の降伏)の情報を得ていたが、その後も潜伏を続け、十月二日になって米軍に投降することを決定、四散した宇土部隊の各隊も十月中旬頃には米軍に投降している。
 羽地村、久志村、金武村地域では、遊撃隊のゲリラ活動が続いた。遊撃隊は大本営直属のゲリラ部隊で、正規軍が崩壊したあとも現地にとどまって敵の後方を攪乱し、情報を収集する残置諜報部隊であった。
 一九四二年(昭和十七)にニューギニアで第一遊撃隊が編成され、ついでフィリピンで第二遊撃隊を編成(これが例の小野田少尉の部隊)、沖縄戦では恩納岳から石川岳・久志岳・多野岳などの山中に遊撃隊が配置された。遊撃隊の任務を秘匿するために「護郷隊」と呼んだ。
 遊撃隊は陸軍中野学校出身の将校下士官と現地で召集した在郷軍人を幹部とし、兵員は陸軍防衛召集規則で召集した国頭郡の青年学校生徒、県立三中の鉄血勤皇隊などであった。
 岩波壽大尉のひきいる第四遊撃隊(第二護郷隊)は石川岳と恩納岳を拠点にして、恩納・金武・宜野座方面へ遊撃戦をくりかえした。兵員は隊長以下三九三人で装備は機関銃と擲弾筒(てきだんとう)、小銃で、橋や道路を破壊するために爆薬を携帯した。
 米軍は、四月中旬には、金武の平川原から伊保原一帯に金武飛行場の設営を完了していた。また、金武と喜瀬武原・安富祖を結ぶ線を遮断して、遊撃隊の活動を押さえこんだ。石川・屋嘉・金武・漢那・宜野座・古知屋に拠点を確保した米軍に対し、遊撃隊の攻撃は執拗に続けられた。
 多野岳・久志岳を拠点とした第三遊撃隊(第一護郷隊)は、村上治夫大尉を隊長として兵員は約五〇〇人であった。第三遊撃隊は、主として名護・羽地方面の米軍を攻撃したが久志岳方面にも進出して東海岸一帯でのゲリラ活動を展開した。
 このように、遊撃隊の活動によって、米軍の警戒は厳重となり、難民収容所に入った住民は、つねに不安な毎日を送った。七月以後は、遊撃隊は山中に散って解散し、北部出身の隊員たちは家族のもとへ帰っていった。第四遊撃隊の岩波大尉が米軍に投降したのは十月二日、第三遊撃隊の村上大尉が投降したのは一九四六年(昭和二十一)一月三日であった。
 金武湾と羽地内海には、海軍の海上特攻隊も配備されていたが、海上特攻は失敗し、ほとんどの者が陸戦に転じた。
 沖縄戦は、中南部の戦闘だけでなく、北部戦線でも山中の悲惨な戦闘があったのである。難民の集中した地域に敗残兵も入りこみ、人びとは飢えとマラリアで死線をさまようこととなった。

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