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2 戦争への道 ―迫り来る戦雲―

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 一九四四年(昭和十九)以前の沖縄は、「国内でもめずらしいぐらい戦争とは無縁の島々でした。戦備らしいものは何一つなく、郷土部隊をもたない唯一の県だったのです。亜熱帯の美しい島々には琉球王国時代の伝統をひく独特の文化と生活風俗がまだ濃厚にのこって」 おり、およそ戦争とは縁遠いものだった。
 それが、南太平洋での米軍(連合国軍)の反攻が勢いを増して日本本土までが危なくなり始めた頃になって「沖縄守備軍(第三十二軍)」を編成して本土の南の守りにあてたのが沖縄作戦の始まりで、一九四四年(昭和十九)の夏になって守備軍の主力部隊が続々と移駐してきた。
 それに伴って兵舎、陣地構築、飛行場建設工事、食糧供出、資材切り出しなどの戦争準備に日に夜をついで動員され、迫り来る戦雲を肌で感ずるようになった。特に読谷山村では一九四三年(昭和十八)夏、飛行場の建設工事が開始されると事情は一変した。その当時の様子を『読谷村誌』(昭和四十四年発行)と『喜名誌』(一九九八年発行)が如実に物語っているので、それらを参考に概説することにする。
 その前に読谷山村における飛行場建設の戦略的背景として、「第三十二軍の沖縄配備と全島要塞化」(大城将保『沖縄戦研究』所収)を参考に若干見ることにする。
 「太平洋戦争は世界の戦略思想の流れを大艦巨砲主義から航空主力主義へ転換させた。日本の航空部隊は一九四一年(昭和十六)十二月の真珠湾奇襲攻撃やマレー沖海戦において驚異的な戦果をあげてみずから現代戦における航空戦力の重要性を実証しながら、四二年六月のミッドウェー海戦では一転して戦艦中心の連合艦隊が米軍の航空母艦中心の攻撃のまえに惨敗を喫した。この海戦で多くの航空母艦をうしなった」(八九頁)。
 緒戦の勝利を実力の差と過信した驕りと情報・索敵活動の軽視のまま、第一機動部隊は六月五日、早朝ミッドウェー島に接近した。ハワイ真珠湾攻撃以降、無敵を誇った第一・第二航空艦隊の空母四隻を攻撃主力とし、三〇八隻に及ぶ大艦隊での攻撃であったが、米軍はこれに先制集中攻撃をかけた。日本軍はミッドウェー島の空襲を行っただけで米機動艦隊の発見が遅れ、攻撃機発進直前を米空母艦載機に急降下爆撃された。赤城・加賀・蒼龍の空母は沈没し、残った空母飛龍も、空母ヨークタウンを撃沈した後、沈没するという大敗北を喫した。この四隻の空母喪失で、五日夜半、作戦中止が命令された。
 内外への公表は日本側の「勝利」とされた。これは大本営発表が自軍の被害を隠蔽した最初のもので、残存将兵には箝口令(かんこうれい)が敷かれ、下士官や兵は一般国民との接触を遮断された。
 ミッドウェー海戦によって日本海軍は主力空母四隻のほか高練度の精鋭搭乗員多数を一挙に失い、太平洋戦線での日本軍の優位は崩れ、以後の闘いにおいて制空制海権を確保し得なくなった。
 日本海軍は、「続く中部太平洋における諸作戦では制空権をにぎった米軍(連合国軍)の反攻のまえに敗退を重ね、大本営(最高戦争指導部)でも航空戦力の早急なる再建と強化を痛感し、国家総動員態勢で飛行機の増産を急いだ。しかし、物資不足と労力不足のなかで航空母艦群の穴を埋めることは絶望的であった。ここに浮上してきたのが、島嶼群に飛行場を設定して地上基地から航空作戦を展開するという「不沈空母」構想であった。
 一九四三(昭和十八)年九月、大本営は戦局の劣勢を挽回すべく『絶対国防圏』を設定し、確保すべき圏域を千島〜小笠原〜マリアナ諸島〜西部ニューギニア〜スンダ〜ビルマの範囲に絞り、態勢のたてなおしをはかった。新作戦方針を実効あらしめるためには前線に展開した航空部隊を支援する後方基地が不可欠であった。具体的にはマリアナ諸島(サイパン、テニアン、グアム)の航空基地に展開した航空部隊を支援するために南西諸島に中継基地を設定する必要があり、陸軍航空本部は四三年夏から南西諸島に多数の飛行場を設定する計画をたて実施にうつした」(八九頁)。

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