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 根こそぎ動員体制

「戦車壕」(宮平良秀画)
 戦争の激化は兵力動員の増大とともに多くの労働力動員を必要とした。先にも述べたように、日中戦争開始の翌年、「国家総動員法」が制定され、それに基づいて様々な労働統制と動員が行われた。一九四三年(昭和十八)以後は、これらはいっそう強化されて「根こそぎ動員」と呼ばれるに至った。そのいくつかを見ることにする。

 「国民徴用令」の施行
 徴用は労務動員政策の中で最も重要な地位におかれ、早い時期から実施された。国民徴用令が施行されたのは一九三九年(昭和十四)七月であった。はじめは熟練工、技術者に重点をおいて、技術の登録、移動防止、雇用制限を行い、強制的な徴用は限定されたが、一九四一年(昭和十六)十二月の改正以後は範囲が拡大されて、ほとんどすべての労働力を網羅することになった。
 徴用には、働いている職場ぐるみで徴用される現員徴用と、新しく徴用される新規徴用があった。学校を卒業して新たに就職する若者はすでに国の配置規制を受けて軍需優先であったという。
 軍隊への召集が赤紙で行われたのに対し、徴用令状は白紙だったので「白紙召集」と呼ばれた。徴用令状を発せられた者は、これを拒否すれば一年以下の懲役または一、〇〇〇円以下の罰金に処せられることになった。しかし戦争が長期化、激化してくると、徴用だけでは不十分であった。

 「義勇兵役法」の施行と国民義勇隊の結成
 一九四一年(昭和十六)十二月には「国民勤労報国協力令」、一九四四年八月、「女子挺身勤労令」が「学徒勤労令」と同日に公布施行された。就業命令に従わない者は徴用令と同じ罰則が課せられるという強制力を持つものであった。さらに、「義勇兵役法」が一九四五年(昭和二十)六月二十三日に公布・施行され、国民義勇隊員が戦闘に際しては国民義勇戦闘隊員となることが定められた。国民義勇隊の結成により従前の産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会・大日本青少年団などの統制組織はすべて解散され、国民義勇隊に一本化され本土決戦に備えた。これにより十六歳以上六十一歳までの男性、十七歳以上四十一歳までの女性は「義勇召集」によって国民義勇戦闘隊に編入され、「義勇兵」として戦闘に参加することになっていた。
 このように上からの組織づくりは進められたが、この時期になると決戦のための兵器、弾薬も不足し、国民の生命を維持するための食料も極度に不足していた。
 こうした戦時下における人々の生活の様子を、「第二節 各字の戦時概況」から見ることにする。

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