読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦

<-前頁 次頁->

 「各字の戦時概況」にみる村民の戦時体制

 供出と食料事情
 戦争の長期化により一九四〇年(昭和十五)頃には、生活必需品(日常品)は不足し生活は苦しくなっていった。それは資源の不足と軍需生産が優先されたためである。
 前述のように米穀の通帳制配給、日常品の配給、衣料品の切符制配給等々が実施されていたが、米の割当量は年齢、性別、職業によって異なり地域によっても相違があった。首里、那覇などの都市の非農家に重きをおいたため農村への配給物資が滞って出回ってこない場合もあった。
 「メリケン粉も手に入れることが出来ず、昭和十五年五月の新聞に『そば屋も開店休業』という見出しで『飯米の切符制実施で飲食店は営業用の飯米がないため、またメリケン粉の購入難にともないほとんど休業状態なり』との記事が出ている。
 石油も手に入らなかった。当時田舎はどこでも電気はなくランプ生活であったが、その灯りをともす石油がなかったのである。…トゥブシ(松の根っこの油のしみたもの)を囲炉裏で燃やして明かりにしていたが、『北谷村屋良や読谷山村伊良皆あたりの松並木の根が削られ、九十本近くも枯死し、警察が取り締まることになった』と当時の新聞(沖日 昭和十五・一・十三)」は報じている」
 タバコの本数買い、夜明け前からの行列買い等は、どの字でも見られた光景であった。実際には米穀の通帳制配給、衣料の切符制配給にしろ、ものが足りなくて買えなかったというのが実情である。このような物不足は全国的なものであったが、特に離島県である沖縄では一九四三年(昭和十八)頃から一層深刻になってきていた。また多くの船舶が軍事用に回され、その船舶までも敵の潜水艦による被害が続出していたことが、物不足に拍車をかけた。
 一九四三年(昭和十八)、北(読谷)飛行場建設が始まると、その周辺に日本軍の設営隊と設営のための防衛隊が駐屯することになった。また読谷飛行場の建設は緊急工事であったため、多数の人夫が県下各地から徴用・動員され、多い場合は一日七〇〇〇人を上回り、文字どおり人海戦術そのものの大工事であったので、当初から食料取得は特に困難を極めたという。
 加えて、一九四四年(昭十九)四月以降、沖縄守備軍が中国大陸や本土各地から続々と沖縄各地に移駐してきた。村内の各地にも守備軍が駐屯するようになり、飛行場建設、陣地構築と戦時色が濃くなった。そのための食料の調達も始まった。
 この食料の供出割当については各部隊長から村長を通じて各字の区長へ通達され、価格もすべて軍部の決定どおりで半ば強制であった。これが農家の食料事情を一層厳しいものにしたことは否めない。それでも村民は何事においても「欲しがりません勝つまでは」の気概で堪え忍んだ。
 守備軍の移駐時には兵舎はほとんど準備できておらず、校舎や村の集会所などの公共施設だけでなく、民家にまでも兵隊が入り込み、その他弾薬、糧秣倉庫、慰安所に使用されるという「軍民同居」の形となった。一般住民と守備軍との関係は国土と国民を守ってくれる兵隊さんということで崇め、部隊慰問なども頻繁にあり概して良好な関係であったと各字の戦時概況では述べられている。供出された主なものをまとめると次のとおりである。
住民と雑居した日本軍(宮平良秀画)

供出の対象とされた主なもの
 甘藷、山芋、芋の葉、冬瓜、南瓜、大根、ごぼう、人参、白菜、ねぎ、にら、
 大豆、いんげん豆、もやし、海産物、山羊、豚、屋根を葺く茅、縄…等々

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦