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 出征兵士の見送りと千人針

 一九三七年(昭和十二)の日中戦争(「支那事変」)が勃発すると、読谷山村からも召集された人が出征するようになった。そして太平洋戦争の初頭までは「祝入隊・祝応召○○○君」と書いた幟を立てて区長をはじめ、字の幹部、婦人会、青年団、親戚、知人らが日の丸の小旗をもち、太鼓を叩いて軍歌を歌いながら、応召兵を先頭に歓呼の声で万歳を三唱し、嘉手納駅まで盛大に見送った。
 これも、戦局が次第に悪化してくる昭和十八年頃からは盛大な見送りも自粛するようになった。それは召集、徴用、動員が激しくなり、人手も足りなくなったことにも起因するが、兵士を見送る暇さえ惜しんで食料増産に励めという意図や、次第に夜間出征していくようになることから防諜対策上のこともあったと思われる。
 女性たちは、召集されて行く兵士のために千人針を作って持たせた。また既に戦地にある兵士に対しても千人針を作って送った。友人、知人の女性たちに頼んで、木綿の布の腹巻きに一つずつ赤糸の結び目を付けてもらい、千人の数に達するようにしたものである。つまり千人の願い、武運長久の心を込めるという意味であった。出征兵士の姉妹が千人針縫いの中心となり、親類の家や、女性の多く集まる場所へ行って縫ってもらった。通常は一人一つの結び目であったが、寅年生まれの人は年の数だけ結び目をつけることができた。それは虎(寅)は一日に千里を駆けるという謂れからきたものである。
 また千人針の中央部には五銭玉や十銭玉も縫いつけた。五銭は死(四)線を越え、十銭は苦(九)戦を越えることからきたものである。
「千人針」(大阪在・森南海子寄託資料 読谷村立歴史民俗資料館蔵)

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