読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦

7 十・十空襲以後の動き

<-前頁 次頁->


 十・十空襲後、被災した飛行場では飛行場設営部隊が昼夜兼行で弾痕修理などの復旧作業を行って、なんとか滑走路の機能を回復させたために、十二日からはじまる台湾沖航空戦の中継基地としての役割は辛うじて果たすことができた。そのことについては、『楚辺誌「戦争編」』、『字渡具知誌「戦争編」』 にも多数の友軍機が読谷飛行場に飛来してきたことが記されていることからもうかがえる。
 防衛庁戦史室著『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』では、「臺湾沖航空戦と第三十二軍の協力」の項で次のように記述されている。
 「第三十二軍の航空作戦協力 九州南部に位置する第二航空艦隊主力が、台湾東方洋上に行動中の米機動部隊を攻撃するためには、沖縄を中継基地とする必要があった。十月十一日夜第二航空艦隊は沖縄陸軍航空基地の全面的使用を第三十二軍司令部に要請した。その展開機数は約五〇〇機とされ、十二日からの使用を要望した。
 軍はこれを快諾し、航空主任参謀釜井中佐は伊江島飛行場二〇〇機、沖縄北飛行場一五〇機、同中飛行場一〇〇機、同南飛行場予備、海軍小禄飛行場五〇機と配当を予定して準備にとりかかった。
 軍は十二日各飛行場の掩護、飛行場の補修、海軍航空部隊に対する協力などに関する軍命令を下達した。
 第二航空艦隊の飛行部隊(陸軍の飛行第九十八戦隊を含む)は十二日沖縄各飛行場に飛来し、活況を呈した。十日の空襲で大衝撃を受けていた住民は、友軍の大編隊を見て歓喜した。
 第三十二軍の航空作戦協力に対し、第八飛行師団から感謝電があり、十五日には参謀総長から次の電報があった。

 今次敵機動部隊貴方面空襲ニ当リ貴軍カ善戦敢闘克ク敵ニ多大ノ打撃ヲ与ヘラレ殊ニ我カ航空部隊貴方面ノ基地ヲ使用スル出撃ニ際シ積極的ニ之ニ協力シ昼夜兼行迅速ニ飛行場ヲ修理シ作戦遂行ニ遺憾ナカラシメタルハ感激ニ堪ヘス
 今後益々各隊ノ健闘ヲ祈ル

 また、十六日参謀次長からも感謝電があった」
 台湾沖航空戦の総合戦果及び損害等については本稿の範疇ではないので省略するが、大本営は、この航空戦が味方の「大勝利」に帰したと発表した。そのことは特に十・十空襲で焼野原になった那覇の街で、「米第五十八機動部隊は、わが航空部隊のために撃滅された。那覇の街の仇は見事に討ち果たした」という軍のビラが配られた。
 家を焼き出された難民たちは、その払った犠牲も忘れて万歳を叫び、涙すら浮かべていたという。
 しかし、この戦勝の報は全くの虚報であった。そのため、続くレイテ沖決戦は誤算と混乱を重ねて連合艦隊は壊滅の道をたどることになった。
 台湾沖航空戦の戦果は著しく誤認、過大視されていて米軍戦史(モリソン著『レイテ』第六章)によれば、十日〜十六日の米軍損害は、特設空母一軽微な損害、重巡一大損害、軽巡一大損害、飛行機九九機となっている。
 十・十空襲後の年明け、一九四五年(昭和二十)の早々から沖縄諸島はひっきりなしの空襲にさらされた。一月三日、四日、十二日、三月一日の空襲は特に大規模であった。そして三月二十三日から沖縄本島は連日はげしい空襲を受け、その後艦砲射撃も加わり、沖縄戦への突入となる。
 また、十・十空襲後の動きの一つとして、政府と県の努力にもかかわらず、県外への疎開業務は遅々として進まなかったが、県外疎開が、とにもかくにも軌道にのりだしたのは十・十空襲後のことである。
 県外疎開(一般疎開・学童疎開)等については別稿に詳細にあるのでここでは省略し、次に上陸までの村民避難の様子等について若干述べることにする。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦