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6 読谷山村における十・十空襲の様子

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「十・十空襲」―消化する女性たち(宮平良秀画)
 読谷山村における“十・十空襲”の様子については、ほとんどの字が、本章二節「各字の戦時概況」で触れている。その内容等については大同小異であるが、ここでは飛行場に近く、米攻撃機の飛行航路真下で村内で最も早く被害者が出た喜名の様子を『喜名誌』(一九九八年発行)等から見ることにする。
 「午前七時頃、ちょうど村の人たちが朝食をとっている頃であった。突然ゴーゴーと地底を揺るがすような飛行機の爆音が朝の静けさを破った。東の空を見ると折から上る太陽を背に、蟻が群がっているような大編隊が姿を現していた。この様な飛行機の大編隊は見たこともなかったので喚声を上げた人もいたと言う。それが四機編隊で順番良く翼を傾けたかと思うと読谷飛行場めざして急降下を始めた。キーンという金属音と共に急降下してくる飛行機が読谷飛行場めざして、ダッダッダッと機関砲の火を吹きながら過ぎていく。頭上で飛行機から離れる爆弾が幾つも斜めに糸を引くように読谷飛行場に落ちていき、炸裂音が響いていた。機体の鋲さえ見えるほどの低空を飛行機が轟音を立てながら間断なく飛んでいった。住民も兵隊も演習と思っていたのである。馬場前池の近くにある田場、内間、宮平の屋敷囲いの石垣の上には住民や兵隊が鈴なりに群がっていた。
 豊浜や仲嶺小の前の道にも家から飛び出してきたらしいひとびとが遮蔽物一つない道に立って飛行場を見ていた。余りにも突然に起こった出来事に何が何だかわからなかったのである。或いは友軍の演習と心を踊らせて見物していたのであろう。それも無理はなかった。不利な情報はことごとく覆い隠されていたので、まさか沖縄の空に敵機が現れるとは予想もしなかったからである。
 この様に殆どの人が演習だと思って見ていたというほどで、中には飛行場内にあった施設に黒煙が上がるとバンザイをした人もいたという。幸いに敵の第一波の攻撃目標が飛行場の施設であったため、村うちでの被害を少なくした。だが、第一波の攻撃でも目標を外れた爆弾が現在の公民館の西隣に落ち、高山さんが爆風で即死し、この他に大城さんというおばあさんも亡くなっている。この空襲は住民にとって初めて体験した近代科学戦であった。今から考えると笑い話のような無知なことも起った。空襲が始まって直に、現在の公民館のある辺りから真っ先に弾が落ち、家が焼け始めた。家が焼けるのを見た人達が駆け付け、バケツリレーで火を消していたという。敵の飛行機が超低空で機銃掃射をしながら飛び交う下でである。今まで何度も防火訓練をやってきたのでその通りやったのだろうが、『なんと無知な』と呆れる話である」(三四九、三五〇頁)
 「空襲は延々九時間にも及んだ。この空襲で読谷飛行場にあった格納庫、倉庫、那覇分廠などの建物が幻のように消え、日本軍の陣地は跡形もないほどに破壊されていた。喜名の民家に置かれていた砲弾が攻撃を受けて引火し、間断なく炸裂する音が地を揺るがし、その凄まじさはまるで地獄のようであった。この空襲で喜名大通りの郵便局から南の道ぞいの家並み四十余戸が焼けている」
 第一波から二波までの攻撃に対する日本軍の反撃について、日本軍側の記録では、「北飛行場に所在した第八飛行師団の独立飛行第二十三中隊(戦闘)は第一次来襲後一機(馬場園大尉機)が米機動部隊捜索のために離陸し、次いで〇九〇〇過ぎ中隊長以下一〇機の全力が敢然として離陸を開始した。このとき米軍の第二次攻撃に遭遇して、きわめて不利な態勢で交戦し中隊長機以下六機は撃墜され、三機は被弾して飛行場に不時着大破、一機は着陸後銃撃を受けて炎上した。馬場園機は米軍機の編隊に遭遇したが、機関銃が射撃不能のため回航して伊江島に着陸し、一一〇〇北飛行場に帰着した」 とある。
 ちなみに十・十空襲における村内の人的被害を見ると次のとおりである。

 十・十空襲における村内の死亡者 平和の礎・刻銘より
字名
死亡者数
喜名
2名
親志
1名
座喜味
2名
伊良皆
5名
波平
1名
渡慶次
1名
宇座
9名
楚辺
1名
長浜
1名
大湾
1名
24名

 この資料は、「平和の礎」刻銘のための申告に基づいたもので、未申告、また調査漏れ等もあって、実際には、この数字を上回ると思われる。

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