読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦

5 沖縄戦の前哨戦「十・十空襲」

<-前頁 次頁->


 マリアナ諸島を攻略した米軍の次の目標はフィリピンであった。この作戦を有利に導くために、米機動部隊は一九四四年(昭和十九)八月末から九月初旬にかけて、小笠原、パラオ、フィリピンなどを空襲し、十月十日から十二日にかけて沖縄と台湾に来襲した。「十・十空襲」は続く台湾沖航空戦とともにレイテ決戦の前哨戦でもあった。
 「沖縄最初の攻撃は、レイテ上陸作戦に参加した第三艦隊所属の攻撃空母機動部隊(司令官マーク・A・ミッチャー中将)によって行なわれた。大型空母七、戦艦五、小型空母八、重巡四、軽巡七、対空巡三、駆逐艦五十八が、昭和十九年十月十日の未明、沖縄沖に到着した」
 空襲は十日午前六時すぎ、日本軍の不意をついて突如として開始された。軍の首脳部でさえ信じられないできごとだったので、一般住民は「友軍の演習だろう」ぐらいに思って安閑としていた。第一撃は読谷山、嘉手納、伊江島、小禄の各飛行場に向けられ、編隊をなした艦載機群から大量の焼夷弾、爆弾、ロケット弾、機銃が浴びせられた。
 その後、船舶、無線設備、港湾設備などが攻撃目標になり、さらに未曽有の被害をもたらしたのは、午後一時からの那覇市街などへの無差別攻撃だった。第三十二軍は十月十一日、「十・十空襲」での那覇市壊滅を第十方面軍と西部軍に次のように打電している。
 「那覇市ハ十日午後第四、第五両次ノ銃撃及爆撃ヲ伴フ大規模ノ焼夷弾攻撃ニ依リ全市火ヲ発シ十日夜半迄ニ県庁其ノ他一部ヲ残シ烏有(うゆう)ニ帰セリ」 と被害の大きさを伝えている。
 空襲は日没まで五波に及び、その範囲も北は奄美大島から南は石垣島までの南西諸島のほぼ全域に爆撃が加えられた。
 なお、この空襲による人的被害は、前掲の防衛庁防衛研修所戦史室の『沖縄方面陸軍作戦』によれば、陸海軍で戦死二一八人、戦傷二四三人、そのほかに陸軍関係の人夫一二〇人が死亡、約七〇人が負傷した。民間人では那覇を中心に三三〇人が死亡、四五五人が負傷した(一二三、一二七頁)。
「十・十空襲」―座喜味高射砲陣地(宮平良秀画)
 この一日の空襲でこうむった被害は、人命だけでも六六八人が死亡、約七六八人が負傷したことになる。
 このほか物的損害としては那覇市の九〇パーセント以上が延焼、県下で一一、五一三戸が全半壊、那覇港をはじめ瀬底錨地、運天などに所在した船舶のほとんどが爆破されたという。他の軍関係では飛行場、陸軍病院、野戦病院などの甚大な被害はいうまでもなく、一か月分の軍用食糧(米)と多くの燃料、弾薬を失い、爾後の作戦計画にも重大な影響をおよぼすほどの打撃をこうむった。
 また皮肉なことに、その時期に第三十二軍は十月十日から三日間、兵棋(へいき)演習(机上演習)を行う予定で前日九日の夜には南西諸島守備軍の各兵団長、幕僚が那覇に参集していた。第三十二軍牛島司令官は、これら兵団長と官民代表を交えた招宴を催している。戦局を説明し、軍民の協調をはかるためのものであった。民間側から招宴に出席した人たちは、席上、将軍たちの「神州不滅」「醜敵撃滅」の意気熾(さか)んな気焔(きえん)を聞かされたが、その翌朝の大空襲に遭い、ただ敵機の蹂躙(じゅうりん)にまかせて、いたずらに燃えさかる市内の惨状を見て、戦局に対する不安を覚えたものであった。
 「“無敵皇軍”を豪語する友軍が敵の来襲も探知できず、わがものがおに乱舞するグラマン(F6Fヘルキャット)やコルセア(ボートF4Uコルセア)などの新鋭機に対し対空砲火はほとんど効果がなかった。心血そそいで建設した各地の飛行場からはわずか一〇機ばかりの迎撃機が飛び立ったばかりで、おおかたの飛行機は無残にも地上で撃破されてしまった。官民の間に軍人への不信感、厭戦気分が流れたことは無理もなかった」
 「この不安は、軍用船富山丸の沈没、疎開船対馬丸の遭難、それにこれまで鹿児島、那覇間に就航していた大阪商船の定期貨客船のあいつぐ沈没の噂や、サイパン失陥をはじめ、南太平洋諸島における玉砕、転進の大本営発表等によって、心中深くおさえ込んでいた戦局不利という想像が、現実のものとなって眼前に展開されるのをまざまざと目撃したことから生ずる不安であった」
 それに、この突然の大空襲は現代戦の無差別殺戮(さつりく)のすさまじさを見せつけただけでなく、守備軍の情報収集能力の無能ぶりを県民の眼前に露呈させることになった。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦