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 警防団と各種訓練

 一九四三年(昭和十八)五月、北部太平洋のアッツ島が玉砕した。以後、南洋の島々でも玉砕が相次ぎ、日本軍にとって戦局は悪化の一途をたどっていった。
 やがて沖縄近海まで米軍機が飛来するようになり、敵機来襲に備えて国民学校でも連日、防空訓練、避難訓練、竹槍訓練(上級生による)等が実施された。中でも竹槍訓練は「鬼畜米英打倒」の名のもとに、各字でも青年団、婦人会を中心に実施された。
 村役場においては、各字の幹部(役員・警防団長)を集めて竹槍の作り方や使い方の講習会が軍の指導で行われた。いま考えると全く幼稚な発想であるが、当時は真剣そのものであった。
 また、燈火管制の訓練も警防団の指導で頻繁に行われた。警戒警報が発令されると、ランプの明かりが漏れないように黒い布や厚紙を被せ、空襲警報には明かりを完全に消すという訓練であった。字の警防団員は各家庭を巡回し、明かりが漏れていないか点検した。しかも、それはやがて本物の警戒警報・空襲警報に変わり、毎晩のように鳴った。
 すべての警報は嘉手納警察署によって発令され、伝令によって各字の警防団に通達される仕組みになっていた。中にはサイレンによる通報もあった。警報は次のように字民に知らされた。

【訓練】警戒警報発令・【訓練】警戒警報解除
【訓練】空襲警報発令・【訓練】空襲警報解除

 初期の頃はこのような警報用語が、うまく使えず難儀した伝令員、警防団員もいたようである。実際、昭和十九年の十・十空襲の時、読谷飛行場では「実敵、実敵」と叫んでいた。

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