読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦

9 国頭(山原)山中での避難生活

<-前頁 次頁->


 一九四五年(昭和二十)三月二十三日ごろからの米軍空襲とその後の艦砲射撃は熾烈をきわめ、多くの住民は、日米両軍の戦場のまっただ中に放り出されることになった。
 読谷山村の指定疎開地は国頭村であったが、「米軍が上陸するまで(村民の)三分の二はまだ読谷にとどまっていました」と当時の役場職員の宮本※※は語っている。
 上陸地点であった読谷、嘉手納、北谷村民のなかには、すでに老幼婦女子を山原(北部)に疎開、避難させているところもあったが、多くはまさか強い日本軍が負け、米軍が上陸してくることはあるまいとたかをくくり、もう馴れっこになっていた空襲の時も屋敷内の防空壕や地元の自然壕(洞穴)に身を隠していた。ところが、米艦隊が大挙して本島に接近、猛烈な艦砲射撃を浴びせて来たのに驚き、取り急ぎ鍋にわずかの米、それに着替えなどを持って山原(北部)や多幸山、牧原、長田の山中、久得山などに逃げた。
 「ことに中部の上陸地点付近、読谷村や北谷村あたりから逃げこんでくる難民のほとんどは、着のみ着のままであったが、もうその頃からは北部は地元民や避難民がごった返し、これらの一物ももたない難民たちのための疎開事務も円滑にいかず、『炊出し』も混雑のどさくさに、いつしか消え、難民たちへの食糧補給は乱脈となった」。そうしたことから県との連絡も絶たれ、末端の機関まで、機能を失って統制がとれなくなっていた。
 教職から戦後、村助役になった喜友名※※も、当時をふりかえって「その頃からは、制空権も制海権も完全に敵の手中に収まっていて、空と海から間断なしに弾が撃ち込まれていました。昼間、広い県道を歩こうものなら、たちまち餌食にされました。だから国頭に退避するのももっぱら夜だけです。昼間は海岸のアダン葉の下か山の中にかくれていなければ、飛行機の機銃の雨を見舞われるか、艦砲射撃を受ける。煙もたてることはできず、炊き出しにもずいぶん苦労したものです。国頭の目的地に着くには、恩納・羽地・奥間と三日がかりでした」 と述べている。
 ちなみに避難指定地国頭村の受入れ状況を『国頭村史』(一九六七年発行)で見ると、総計約一万八千人が転入することになったが、読谷山村に限って見ると、約六三九〇人で、指定地域は浜から伊地までの八部落の民家や山手の避難小屋に入る予定であった(五四一頁参照)。
 実際には、指定地国頭村にどれだけの人数が入村したか、また、三月二十三日以後の避難民の人数などについては、いまだに確かな数字は把握されていない。
 国頭村への避難経路としては、西海岸よりは読谷―恩納―名護―大宜味―国頭村、東海岸よりは読谷―石川―宜野座・東―大宜味―国頭村の二つの経路で、それぞれ移動して行った。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦