読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦

<-前頁 次頁->


 飢えとマラリアの猖獗(しょうけつ)

 山原と呼ばれる北部山岳地帯は、沖縄戦前後から数か月間、中南部からの疎開者が避難生活を送った所である。地元住民、疎開者(避難民)、敗残兵など合わせると、山原全域では十数万の人々が避難していたとみられる。これだけの人口を擁した山中で一番深刻だったのは食糧問題であった。
 早くも四月五日には米軍は名護と屋部に上陸し、北上して羽地に入り、本部半島を遮断している。その頃、中南部から北上しつつあった避難民の多くは名護、羽地の地域にあって大混乱をきたしていた。持参した食料は旬日のうちに食べつくし、米軍の上陸後は、当然のことながら県や町村当局からの食糧配給はまったくなく、食料確保の手だては完全に失われていた。
 「国頭村ではすでに三月ころ、『深山生活ヲ続ケル中、食糧ハ益々欠乏シ、山中ノヒゴ又ハツハブキヲ食シ、ナホ弾雨ノ中ヲ命ヲ賭シテ部落ノ此処彼処ノ畑ヲ俳ヒ廻ワリテ芋ヲ探シ、マタハ蘇鉄ヲ取リテ食シ、漸ク餓死ヲ凌グ、其ノ間殺害者捕虜続出シ、悲惨甚シカリキ』(「浜共同店沿革誌」参照)という状態で、浜部落だけでも捕虜一人、行方不明一人、殺害された者八名を出した。
 以後の状況はさらに甚だしく、蘇鉄やヘゴの芯はいうまでもなく、ヤマモモ(楊梅)、椎の実や川の魚、エビ類のことごとくを食料にし、肉桂やミカンの葉を煙草がわりに吸った。マラリヤ(ママ)におかされ、栄養失調におちいった避難民が国頭村と大宜味村あるいは東村の間を住き合い、貨幣をふところにしたまま山道に行き倒れているものもいた。安波ではこれらの死亡者の遺骸を龕屋付近に集めたが、終戦時までに骸骨の山が築かれた」
 「国頭村、大宜味村、東村、久志村の山中に逃げこんだ避難民の大部分は、食糧を入手できず、山中で飢え死に、栄養失調でたおれていった。その数はおそらく万単位のものであろうといわれている。なかには、どうせ死ぬなら郷里へ帰って死のうと、山中を国頭、大宜味、東、久志と南下し、中途で死んでいった者もある。
 住民にとって、いまひとつの不幸は、日本軍の敗残兵の横暴であった。中南部からの戦線を離脱してきた敗残兵や本部半島の戦闘で山中に追われた日本軍は、住民の避難先に出没して食糧の提供を求め、あるいは島づたいに与論方面への脱出のためのクリ舟の徴発をしたり、『大日本帝国軍隊』の本質をさらけ出した。(中略)
「山の避難小屋」(宮平良秀画)
 北部における県民の受難は戦中にかぎらなかった。死者の数では、戦中よりも六月から七月、八月にかけての敗戦直後の方がはるかに多い。その原因は第一に食糧難であるが、開戦直前から戦中にかけて、数か月におよぶ栄養失調(飢え)と過労のため、マラリアその他の病気でバタバタと死んでいったのである。とくにマラリアはものすごく、北部地域在住者でマラリアにかからなかった者はおそらく一人もいないだろうといわれている。米軍が菌をバラまいたのでないかという風評が立つほどであった」

表2 各字別避難指定地
字名
避難指定先地名等
喜名
国頭村奥間、浜、比地
親志
国頭村辺土名
座喜味
国頭村辺土名
伊良皆
国頭村宇良
上地
*石川の嘉手苅、長浜のナカブクの壕
波平
国頭村比地
都屋
国頭村比地、辺土名、奥間
高志保
国頭村奥間
渡慶次
国頭村桃原
儀間
国頭村辺土名
宇座
国頭村辺土名、伊地
瀬名波
国頭村与那
長浜
国頭村伊地
楚辺
国頭村奥間
渡具知
国頭村与那
比謝
国頭村浜、奥間
古堅
国頭村鏡地
大木
国頭村辺土名、比地
比謝矼
国頭村比地
牧原
国頭村浜
長田
国頭村浜

 *上地は指定地は示されなかったというので、実際に避難した場所を記した。(村史編集室調査)

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第一節 読谷山村における沖縄戦