読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

22 長田

 戦前の長田

 集落のほぼ中央を流れる長田川をはさんで西にシルジュー、東は水車があるミジグルマー(東組)、そして嘉手納の久得に隣接したところが石嶺組(イシンミ)と呼ばれた。長田川にはいくつもの細流が流れ込み、その小さな川に沿って家々が点在していた。
 長田は、廃藩置県後に首里から士族が入植してできた集落で、行政区がしかれたのは明治二十九年であった。大正二年には、首里出身で農大卒の川平※※が農業改革に取り組み、換金作物の栽培が盛んになった。
 戦前の長田では、イシンミからミジグルマーにかけて、さらにシルジューの長田川沿いには田圃が広がり二期作で米が取れた。またお茶やショウガもあり仲買人が買い取っていった。山には桑畑があり、みかんやバナナもあって、川に入ればエビやカニがとれ、自給自足の生活を営んでいた。水車は砂糖キビを絞る動力として使われ、後に精米や製茶の動力としても使われた。
 戸数は三三戸で、山間の実にのどかなたたずまいの集落であった(「読谷村長田民俗地図」より)。

 出征と戦死者

 長田からの出征は、日中戦争さなかの昭和十三年頃から始まる。多くの人々が応召したが、まず土帝君(トゥーティークー)を拝んで嘉手納駅で見送った。昭和十九年の初め頃には国吉※※(屋号※※)が戦死した。家族で遺骨を受け取り、普通に自宅で葬式を執り行った。
 そのほかに亡くなった人々は次のとおりである。禰覇※※(陸軍兵長)、禰覇※※(防衛隊)、宇栄原※※(防衛隊)、宇栄原※※(サイパンで現地召集)、宇栄原※※(サイパンで現地召集)、岳原※※(防衛隊)、多和田※※(長男)、多和田※※(次男)、喜友名※※(陸軍上等兵)、山内※※(陸軍兵長)の人々である。イシンミからも多く出征したがそのほとんどが無事に帰還している。住民の犠牲者は「平和の礎」刻銘名簿からみると二七人である。

 日本軍の駐屯と火災事件

 長田に日本軍が駐屯するようになるのは、昭和十九年の初め頃からである。イシンミには山部隊、シルジューには山部隊の野砲隊、ミジグルマーには武部隊がいた。ワチグヮー(山と山の間の谷間のこと。畑があり真ん中を小川が流れている所の名称)には軍馬もたくさんいた。高江洲(タケーシ)の家には炊事場が置かれ、常時五人ほどが寝泊まりした。そのほかにも、大きな家の一番座や二番座は殆ど将校たちに取られ、その家の人たちは三番座か裏座で寝泊まりした。屋号クニシでは将校達が集まって会議が開かれることもあった。
 山の中には、五、六棟の兵舎が建てられ、傍らには隊長の小屋が別に作られ、立哨兵が常時立っていた。兵舎は茅葺きで、壁は土で塗り固められていた。また、名嘉真の家の下の畑にはテントを張った医務室があり、軍医が居て小さな野戦病院になっていた。
 山部隊は主に道路や三角兵舎を建築したり、陣地を構築する任務に就いていた。また、野砲隊は夜になると馬を使って県内各地にいろんな物資を運んでいるようだった。長田の近くに野砲陣地が設置されていたわけではなかった。馬は足の大きな力のある馬で北海道産だった。
 イシンミから屋良久得には聯隊本部や新兵の教育訓練施設等があった。一棟が四間×一〇間くらい(約四〇坪)の茅葺きの長屋がいくつかあった。沖縄で召集された新兵たちはここで教育された。聯隊本部では、昭和十九年の暮れ頃、火災が発生し十数名が死亡する事件が起きた。ジョージ・ファイファー著『天王山』(上)によると事件の概要は次のとおりであった。
 「あるとき、聯隊の兵器係将校がその席上(作戦計画の検討が行われた場)、戦車に対する肉薄攻撃に使用する予定の試作品の急造爆雷を披露して、説明しようとした。手製の木箱に七キロの黄色火薬(TNT)を詰めて、発火装置として延期秒時が二秒の門管を付したもので、戦車の近くに忍び寄ってその下にこれを投げ込み、戦車を爆破しようというものである。兵器係将校が急造爆雷の入った木箱をとりだした。
 彼がその包みを開こうとしたとき、爆発が起き、彼は長靴をはいた両脚を残しただけで消えてしまった。この暴発事故によって、そこにいた十数名の将校が負傷し、聯隊長を含めて最前列にいた将校全員が急遽、病院にかつぎ込まれた(列席者全員が負傷し、病院に収容された)」(一五九頁から一六〇頁。一九九五年六月、早川書房)。
 医務室がある名嘉真の家から見ていた名嘉真※※によると、負傷した兵士たちは頭も焼け、着ている物も焼けてほとんど素っ裸の状態で運ばれてきた。身体中に何かを塗られて後、担架で知花にある病院に運ばれた。二日ほどして、そのほとんどが亡くなり、隣の仲本グヮー(北谷村久得)のアサギにかつぎ込まれ、翌日安里グヮーの下のワチグヮーで火葬された。

 戦時体制下の住民生活と日本兵との関係

 食糧の供出は野菜や米が主で、当時の禰覇※※区長が定期的に各世帯を廻り、カボチャ、カズラ、大根などの供出を割り当てていた。
 日本兵は北海道出身者が多く、親切で住民とも仲良く過ごしていた。当時数えで七歳だった名嘉真※※によると、「母の実家の高江洲が炊事班の居るところだったので、そこに行ってよく遊んで貰った。河合上等兵といったその兵士は、子供たちを馬に乗せて遊ばせてくれるような、優しい人柄だった」という。
 また、兵隊たちは食事は贅沢にあったので、作って食べきれない物を親しくしている家族にもって来てくれたり、北海道から送られてきたであろう干物や塩辛、鯖の缶詰をくれたりした。住民はそのお返しに、十五夜になると月見団子をたくさん作って兵隊の所に届けた。高江洲家では、兵隊から大豆を預かり、豆腐を作ってあげたこともあった。
 昭和十八年頃からは、読谷山国民学校へは行けなくなっていた。伊良皆の大きな木の下が青空教室となり、出ても出なくてもいいという感じになった。たまに三、四年生は松の木の皮を剥ぐ作業などがあった。青年団を中心に竹槍訓練や防空訓練が行われ、出征兵士の為の千人針づくりも行われていた。また、北(読谷)飛行場の設営のため長田からは四人が徴用された。その人たちは、朝四時には家を出て、モッコを担いで土砂を運んだり、あるいは発破を仕掛けるなどの仕事をした。

 出稼ぎ・移民・移住

 長田からは多くの人が海外に出稼ぎなどに出ていた。中には、海外にいくことで兵隊に取られないですむということから、出かけた人々もいたという。昭和六年頃、屋号宇栄原小の長男家族と次男がサイパンへ出稼ぎに行き、その後備瀬※※の家族、さらに豊浜※※等が同じくサイパンへ行った。高江洲※※の一家は妹の※※も一緒にロタ島へ行った。南米ペルーには、豊浜※※、ペルーヤマチグヮーと屋号の付いた山内家が行ったが、山内家は沖縄戦前には帰ってきていた。
 平良※※は昭和十六年に国民学校高等科一年生でたった一人でパラオに行った。親戚の家での年期奉公ということで学校を退学させて行かされている。彼によると、「パラオといっても本島(バベルタウプ島)のすぐ下にあるコロール島にいたが、空襲があると防空壕に隠れて難を逃れた。米軍の上陸が予想されたので本島に渡り、終戦までジャングルの中で生活して、昭和二十一年一月に引き揚げ船からインヌミ収容所に上陸し帰省した」という。

 十・十空襲からやんばる疎開へ

 昭和十九年十月十日朝、各家庭では朝食をとったりして、普通の一日の朝を迎えていた。長田に駐屯していた部隊の多くは、せっかく作った防空壕や陣地も捨てて島尻に移動していて、残った僅かな兵士たちがその日もいつものように訓練をしていた。そこへ突然戦闘機がやってきてパラパラと屋根にやっきょうが落ちてきた。最初のうちは、日本兵たちも演習と思って見ていたが、爆弾が飛行場方面に落とされ大きな爆発音をたてたので、敵機来襲を知り防空壕に避難した。防空壕は、家族用としてほとんどの家が山の中に掘ってあった。そこからは、ちょっと顔を出せば中(屋良)飛行場や北(読谷)飛行場が見えたが、攻撃は那覇や読谷、屋良の飛行場が主で、長田には爆弾は落とされなかった。
 長田の疎開指定先は国頭村浜だった。最初に避難したのは、区長の禰覇※※一家に高江洲家、多和田家の三家族で昭和二十年三月初め頃であった。馬車を持っていたので、それに食糧などを積み出発した。当時はまだ昭和バスがやんばる向けに通っており、それに乗って国頭村浜まで行くことが出来た。残った人々は、上陸前の空襲が本格的になった三月二十七、二十八日頃になって避難を始めた。空襲が激しく、夜間を利用しての逃避行で、目的地も恩納村安富祖、国頭村など、それぞればらばらであった。

 投降から収容、帰村へ

 恩納村安冨祖にいた名嘉真※※らは避難しているところに米軍が攻めてきて、そのまま収容されたと言う。トラック二台分に乗るほどの長田の人々が収容されたが、別々の収容所に送られ、家族も二、三か月はばらばらになった。
 国頭の山中に竹で作った避難小屋生活を送っていた人々も次第に食糧が尽き、喜如嘉あたりに投降してきた。とにかく一番大変だったのは食べ物だったと、ある人は次のような体験を話している。「真っ先に保護された人たちは幸せだったと思う。手足が膨れ上がり、食べ物なら何でも口に入れた。魚を調理する際のはらわたさえも争うように食べたほどだった」と。
 その後、昭和二十一年末に読谷村に帰るまで、長田の区民はいくつかの収容所で生活をしていた。
 『村の歩み』(一九五七年、読谷村役所発行)の第二二表「読谷村民各地区分散居住状況調(一九四六年九月)仲本政公氏提供」によると、長田の人々の分散状況は、石川(六四人)、中川(三九人)、漢那(二五人)、コザ(九人)、辺戸名(六人)の合計一四三人である。
 最初に読谷村に移動してきたのは、高志保公民館の北側であった。しばらくして、昭和二十一年十一月半ば頃、楚辺、大木付近が居住許可となり長田の人々は大木に先発隊を派遣し、仮設住宅ができ次第移動して行った。屋根には茅を葺き、壁は米軍のテント用の「カバ」(テント布地)を張り付けた粗末な物ではあったが、そこから戦後復興の歩みが始まった。

 米軍の上陸と自殺事件

 米軍上陸の四月一日、悲惨な父娘の自殺事件が起こった。屋号※※のタルーウンチューと呼ばれた山内※※は、家族をやんばるに避難させ、自身は長田の家にいた。娘の※※は、やんばるでの食料にしようと父の所に豚肉を貰いに来た。※※は体格も良く、青年会長をやったほどの元気者で、上陸直前の大空襲の中を家族の食料確保のために来ていた。二人は山の中の避難壕の中で豚を潰し、担いで外に出ようとしたが、そこへ米兵たちがパラシュートで立て続けに降りて来た。それを目撃した父は恐怖におののき、娘を殺し、自害した。(小橋川清弘)

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)