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21 牧原

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 概況

 牧原は読谷村の南部に位置し、北は長田と境界を一つにしており、南は比謝川本流(前ノ川、無漏渓(むろけ)川、茂呂木(もろき)川などとも呼ばれていた)を隔てて北谷村(現嘉手納町)嘉手納と相対(あいたい)する。そして北西は比謝川支流(後ノ川と呼ばれていたが、今日では長田川となっている)によって大湾と境をなしている。つまり比謝川の本流と支流に挟まれた台地が牧原の地域である。
 牧原の地名は琉球王朝時代、同地が王府の用馬飼育場で、俗に馬牧(ウママチ)と呼ばれていたことから来たもので、元々は比謝村の一部であったようである。
 『球陽』附巻二、尚貞王世代四十一年(一七〇九)の記に、「読谷山郡比謝村に儀間なる者有り、膂力甚だ大、驍勇絶倫なり。曾て馬を牧に守る(後略)」として、続いて彼の膂力(りょりょく)(筋肉の力)の絶世ぶりが書かれているが、当時牧場は比謝村の地域内であったことが知られる。
 時代は下って「明治十四年十二月読谷山間切牧馬場概調」によると、次のようになっている。

 一 反別弐拾六町六反六畝弐十歩
 一 牧場牡長弐頭牝長拾四頭
 一 地所本間切内大湾比謝古堅ノ三ケ村

それからすると、本地所内の境界線は定かではないが、三ケ村に属していたということになろう。(註=総面積二十六万六千十三坪 『読谷村誌』昭和四十四年)
 その後、「(比謝村は)大湾村の芭蕉敷地と交換して今の所に移転致したる趣是れは大湾村の記録にこれある由に候」(明治四十年九月八日『琉球新報』)ということから、当地は大湾村に属するようになった。
 明治四十一年(一九〇八)、沖縄島嶼町村制施行(四月一日)に際して字大湾から分離独立して字牧原を創設した。
 さて、廃藩置県に際して禄爵(給料と官位)を失った士族に、王府は牧場を開放し開墾を許した。それによって明治十八年(一八八五)頃から首里・那覇の旧士族たちが入植して来た。

 「廃藩置県で尚家に仕えていた二十五人の侍(ママ)(旧士族のこと)が、都落ちして住みついたのが、部落のはじまり。二十五人の落ち武者(ママ)(旧士族のこと)は、百名兄弟・安室兄弟・多嘉良・富里・渡久山兄弟・新崎・竹富・知名兄弟・太田・高宮城・金城・兼浜・渡嘉敷・鉢嶺兄弟・知念・仲吉・川平を名乗った人たちだったといわれる」(『読谷村誌』)。
 先述した通り、部落地域が台地上に立地しており、前述の二つの流れに挟まれていることから、当初、外部への交通の便は余り良くなく、沖縄製糖株式会社嘉手納工場へ搬入する甘蔗は、荷馬車で比謝矼を経由して嘉手納の集積所へ運び、更に台車(トロッコ)に積み替えて工場に届けていたのである。
 昭和三年(一九二八)から六年までの三年間で耕地整備の大事業が行われ、農業灌漑用溜め池および付随施設・排水溝・道路新設・栄橋の架設や防風林の造成等が行われた。中でも昭和六年の栄橋(俗称「二重橋」)の架設は特筆すべきもので、それによって北谷村屋良と結ばれた。そして橋の機能をさらに高めるものとして二本の道路の開通が挙げられる。すなわち部落東側の北谷村久得から栄橋に至る幅員約六メートルの一号線と、牧原西端を開削(かいさく)して県道に至る幅員約六メートル道路(二号線)の開通がそれである。
 さらに沖縄製糖会社が、栄橋を通って字内二方面にトロッコ用鉄軌道を敷設するに及んで、それまで荷馬車の二往復で運んでいた蔗茎は、台車一台(三〇〇〇斤)に積載され、直接計量所まで運ばれて搬入時間の短縮や面倒な積み替え作業の労力軽減にも大きく寄与した。
 字内の土地は、北から時計の針巡りの順で、富名底原・長田原・虎地原・比嘉原・牧原の五つの小字からなっている。
 土質は弱酸性のヤンバルマージ(山原真地)で、割合保水力に富み甘蔗・甘藷作を始めとする諸作物の栽培に適している。耕地整備とあいまって農業経営の実績が認められ、昭和十年には県から「優良農家部落」として指定された。
 ところで、入植当初、将来土地は入植者に譲渡するとの口約(入植者は拝領地と理解)があったが、明治末期、この入植地は蠡耋兮鷽製糖に売却され、さらに蟆縄製糖、そして蠡臈貪業へと転売され、字内の全戸が小作農となり、沖縄戦に至った。
 旧集落の西側にはチチェーングーフと呼ばれる丘があり、東支那海をみはるかす絶景の地である。そこにチチェーン御嶽があって、旧暦九月九日には字主催の例祭があり、その他総べての祈願はここで行なわれた。
 御井(ウカー)という井戸は尚王(坊主御主)が逗留された時の御用水ということで、毎年旧暦一月四日、九月九日、十二月二十四日に字の役員や有志が参拝して、部落の繁栄を祈願していた。
 昭和十九年当時の戸数は、七一戸(援護関係資料)であるが、人口は不明である。

 戦時下の生活

 統制経済

 日中戦争(「支那事変」)が長引くにつれ、諸物資は不足し始め、米は米穀通帳を用いた配給制(昭和十六年四月)となり、繊維製品も切符制となったが、出産が近い人には衣料切符を融通してあげたりもした。
 煙草は配給制ではなかったが卸元からの数量制限によって、思うように入手できなくなり、人々はそれを求めて未明から比謝矼の渡久山煙草店や嘉手納の煙草店の前に並んだ。
 あらゆる商品には公定価格が定められ、公表示するように指示されたが、極端な供給不足から民間では闇値で取引することが公然の秘密のようになっていた(闇取引)。
 また豚を始めとする家畜の無断屠殺も禁止されたが、官憲の目を盗んで密殺(ワチグルシー)も行われることがあった。
 当時の標語に「欲しがりません勝つまでは」というのがあって、耐乏生活を強いられていた。

 勤労奉仕作業

牧原青年団(榮橋にて 昭和14年頃撮影)
 出征軍人の家の農事を助けるため、青年団が中心になって耕作や取り入れの勤労奉仕作業をした。当時は時計が少なかったので勤労奉仕作業の時間の合図や、一般に対する朝五時の時間通報は太鼓やラッパで行った。

 普通女子青年は男子青年とは別に「処女青年団」と呼ばれていたが、出征や徴用で男手が少なくなると、彼女たちも出征兵士の家(「名誉の家」)の畑仕事などの勤労奉仕作業をした。

 国防訓練

 戦争が長引くにつれ、空襲警報についての訓練が始まり、青年団から伝令として二人が嘉手納警察署に送られ、そこで詰めていた。訓練空襲警報発令や解除の報を受けると、伝令は字事務所まで走って伝達した。
 伝達を受けた事務所では、係員がサイレンを吹鳴(すいめい)して警報(断続吹鳴)、又は解除(連続吹鳴)を知らせた。サイレンは大阪で安里食品社を経営していた安里※※が昭和十五年に寄贈したものであった。
 空襲警報の伝達訓練にともない、防火訓練としてバケツリレーによる消火訓練も行なわれたし、屋号国吉の東のアジマー(十字路)では竹槍訓練も行なわれた。
 国防訓練の中心は警防団であったが、訓練時の湯茶接待、食事の炊き出し等は婦人会が受け持った。訓練時の婦人会員たちは平素の琉装のウシンチーから活動的なモンペやエプロン姿に変わっていた。

 供出と献納

 野菜や芋、米、大豆等の供出があり、軍靴の材料ということで豚の皮まで納めた。供出物は当時の多嘉良区長が集め、字事務所に置いておくと馬車で持っていかれた。村には産業技手(農業、林業)がいて、各字を回って回収していた。
 農産物の他にアルミの鍋、銀製のジーファー等の金属類も納めたが、はては栄橋の橋名を刻んだ銅板までも持って行かれた。それらは供出とは言わずに「献納」といった。

 徴用

 牧原では北飛行場建設に徴用された人が多かった。最初の頃は景気がよく、特に馬車ムッチャーは一日二〇円もの賃金が支払われた(当時は五円もあれば笊(ざる)一杯の食料品が買えた)。十五、六歳以上の男子が徴用されたが、夏休みなどには国民学校高等科の児童も手伝いに行った。
 徴用日数は一〇日、一五日、二〇日とだんだんと長くなっていった。村外の遠くから来た徴用工たちは、住み込みで働いていた。
 伊江島飛行場建設に徴用されて行って、亡くなった人もいる。

 日本軍の駐屯

 昭和十九年になると多くの日本の兵隊が駐屯するようになってきた。民家に分宿していたのは主に球部隊で、山部隊の一般兵はテントを張って宿営していたが、士官は民家に泊まっていた。
 山部隊は「満州」(現中国東北部)から来た部隊で、北海道出身の兵隊が多かったが、後に島尻に移動した。原口大尉などがいた。主陣地は長田にあり、陣地構築や防空壕掘りが主な仕事で、その枠材として松の木を切り倒していた。また、渡具知や都屋にも作業に出かけていた。
 いつどこに移動するかは知らされなかったが、牧原から渡具知へ軍馬を引き連れて移動した部隊(山部隊の野砲隊)もあり、隊長は渡具知の屋号※※(大湾※※宅)を宿舎としていた。
 長田川沿いの松林には大刀洗航空廠那覇分廠の軍属が鍛冶をしていて、大砲の車輪等の修理に当たっていた。
 日本軍の駐屯状況について個別に聞くと、町田※※は次のように話している。

 「最初に入ってきたのは山部隊ではなかったかと思います。牧原では一〇箇所ほどに配置になっていて、朝は訓練などもしていました。大隊本部は比謝橋から牧原に上がる道の左側の畑の中の農家にあったが、そこと連絡を取っていました(十・十空襲後都屋に移動)。牧原では、兵隊は『たこつぼ』といって、三尺くらいで一人の兵士が入れるくらいのものを蜂の巣のようにあっちこっちに作っていました」。

 民家への駐屯については、国のためだということで仕方なく貸した。断りようもなかったのである。部屋を提供した家庭は後組と東組に多かった。
喜友名※※宅=牧原で最初に兵隊が駐屯した。(屋号※※)

金城=山部隊の本部で隊長(大尉)がいた。理由は分からないが後に准尉以下四人は他の民家に移った。
金城小=山部隊の田中准尉がいたが、後に※※(比嘉※※宅)やユナンチャ比嘉に移った。
樽比嘉(比嘉※※宅)=兵隊がいた。
東山内(山内※※宅)=兵隊がいた。
安森=兵隊が五、六人いた。
安里小=北海道出身の兵隊がいた。
後組岳原小=伍長・軍曹がいた。
仲程=山部隊の千葉曹長がいた。
沢岻小=軍隊の炊事場があった。
渡久地小=軍隊の炊事場があった。
浜元=伍長がいたが、北谷村国直で戦死したという。
 民家への兵隊の宿営について屋良※※(旧姓※※)は次のように話している。

 「私の家の屋敷内に山部隊の一小隊がいました。隊長は東中尉といいました。昭和十九年の八月頃来ています。十・十空襲後は、これらの部隊は島尻に移動していますので(昭和二十年の年明け早々)、七か月間は家族みたいに生活しました。小隊の秘密会議があるときは、一番座、二番座を占領されて、家族は台所に行くように言われて、そんな暮らしでした。私の家にいたのは野砲隊だから、何分で組み立てて撃つことができるかという訓練をしたり、水釜に演習に行ったりしていました」。

 日本軍(兵)と字民との関わり

 兵士達に家を提供し、一つ屋根の下で暮らしているので字民とは友達同士のようだった。兵士達は夕方の点呼を終えると自由に行動することができたので、子ども達と一緒に遊んだりしていた。中には飯盒を持ち歩き、飯を温め直してくれるよう頼む兵隊もいた。上官にそれを見られたり、民家で何か食べたりするのを見られると厳罰を食らった。少々のことでもすぐ殴られたりして可哀相だったが、それでも懲りずにこっそりやって来た。そのような兵隊にはこっそり食べ物をあげていたが、時には陣中見舞いということで芋や豆腐等を部隊に持って行くこともあった。
 民間人に暴力を振るうことはほとんどなかったが、兵隊同士の体罰は厳しかった。岳原※※によると、東京出身のある兵士が胃を痛めて通常の食事が出来ず、芋葛湯(いもくずゆ)を作ってくれと頼むので作って上げた。何度かそうやっているうちに、上官に見つかり棒でひどく叩かれ、気絶すると水をかけてまた叩き、棒が折れると新しい棒を使ってさらに叩くという状態で見て居れなかったという。また、岳原※※によれば、作業用の鶴嘴(つるはし)を無くしてしまった兵士が折檻死し、屋号渡久地小の前の畑で火葬したことがあったという。渡久地※※もそのことを確認し、「大きな松の木を切ってきて、その上に置いて火葬していました」と語っている。
 球部隊の兵隊の中には民家に入って来て、勝手に芋や豆腐、魚などを取って行く者がいたが、山部隊の兵隊にはそのようなことをする者はいなかった。

 十・十空襲

 十月十日の朝、北飛行場には真っ黒な煙が上がっており、演習にしてもどうして自分たちの造った飛行場を攻撃するのか、と人々は不思議に思いながら見ていた。隊長も演習だと言っていたが、広岡という当番兵は字民に「演習ではなく空襲だから早く防空壕に入りなさい」と言ったので、急いで壕に入った。その日は壕で寝る人が多かった。
 空襲では主に飛行場や製糖工場などがやられ、牧原には被害はなかった。
 この日の空襲について町田※※は次のように話している。
 「朝は七時頃からですね、私は家で(役場への)出勤の準備をしていました。牧原には兵隊がたくさん駐屯していて、兵隊も(空襲を)見ているんですよ。演習かなと思ってですね。目標は北(読谷)飛行場と高射砲部隊がありましたから、そこですよ。日中は攻撃を繰り返したので、終わってから役場はどうなったかなと(思い)見に行きました」。
 また、岳原※※は「十・十空襲が来るまでは、よその国でしか戦争はないと思っていた」という。そうした思いは大方の字民が持っており、米軍の空襲は大きなショックであった。

 出征兵士の見送り・村葬

 出征兵士の見送りは、「支那事変」の頃まではとても華やかだった。字事務所前に字民が集まり、区長や本人のあいさつの後、本人を先頭にチチェーンの拝所に向かい、そこで武運長久を祈願した。青年団や字の有志たちは、その後嘉手納駅まで行き、見送った。
 出港の日には、高いところにあるチチェーンの御嶽に登り、そこで火を焚いて沖行く船に別れを告げた。
 戦死者の遺骨の帰還を「無言の凱旋」といった。当時としては大変名誉なことで、村葬の礼を持って告別式を行なった。当初、村葬は村出身戦死者があるごとにまとめて読谷山国民学校の校庭で行われたが、牧原出身者では翁長※※が確認されている。

 学徒隊等

 比嘉※※は沖縄師範学校女子部の本科一年生であったが、「ひめゆり学徒隊」の一員として従軍し、沖縄陸軍病院での看護業務に服していたが戦死した。また、国吉※※も積徳高等女学校での勉学中、第二十四師団第二野戦病院の篤志看護婦として軍と行動を共にし戦死した。

 字民の避難状況

 字民は、自分たちの屋敷近くに各戸ごとに小さな壕を掘っていたが、後に隣組ごとに協力して長田川や比謝川沿いの山の斜面に、フインチャー墓(掘り込み墓)のような感じで横穴を掘って避難壕とした。牧原は周囲が山(松林)に囲まれていたので、飛行機からの遮蔽には他地区よりはよかったと思う。
 町田※※の場合の避難状況は、次の通りである。
 「三月二十五日になって、非戦闘員も全部避難するようにという命令が役場から出た。その晩から避難しました。恩納村(瀬良垣)に避難していましたが、家に父を残していたから、自転車を引いて家に戻った。昼は艦砲射撃が激しいから壕に隠れていて、二十六日の晩から持てるだけの食料を持って久得から楚南山城を通って石川に出た。そこで夜が明けて、艦砲射撃が激しく動けないし、さらに大雨で壕にも入れなくて、暮れるのを待った。その時に、宇久田国民学校の校長先生をしていた大湾※※先生が御真影を山原に避難させるといって通りがかった。艦砲射撃が止んでから歩きだして、やっと瀬良垣に着いて、親戚の家に避難していた家族と会った。しばらく避難壕に居たのですが、四月一日に米軍がやってきて、壕に黄燐弾(おうりんだん)を撃ち込まれ、外に出たところを保護された。家内は一〇か月の子どもを抱いて山の中に避難していたが、兵隊と通訳が行って『殺さないから出なさい』と言われて出てきた。だから、上陸の様子は分からない」。
 元々、牧原の指定避難地は国頭村字浜であったが、縁故を頼ってそれ以外の所に避難したところもある。
 避難生活の幾多の苦難を経て投降し、保護された字民は、各地の収容先での仮寝を余儀なくされた。
 一九四六年九月、仲本政公提供の「読谷村民各地区分散居住状況調」によると字民は、石川に二七八人、コザ三六人、前原一九人、中川七人、宜野座三二人、田井等一一人となっている(『村の歩み』読谷村役所 一九五七年発行、八〇頁)。

 帰村・その後

 昭和二十一年末から読谷村民の帰村が始まったが、居住は波平と高志保の集落跡に限定され、字民の多くは波平の集落跡に閉じ込められた生活であった。
 昭和二十二年十二月三十一日現在、読谷村役所の「各区別移動済人口調」によると牧原は移動済戸数が五三戸、男一二九人、女一三九人、合計二六八人となっている(前掲書、八一頁)。
 間もなく楚辺・大木地区の居住許可により、字民の多くは大木に移り住み、読谷村南部の人々との雑居生活を余儀なくされた。
 やがて読谷村南部の各地も米軍用地から開放され、旧集落跡に字を再建した。しかし、戦後の牧原は「ビシカワ・エリア(比謝川地域)」という米軍用地となり、弾薬部隊・下士官クラブ(ロッカークラブ)、そして軍用犬飼育場となったりしていて、旧集落跡に戻ることができず、やむなく字民の大部分は伊良皆の西と大木の東側の地に宅地を構え、今日に至っている。(渡久山朝章)

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