読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

20 比謝矼

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 概況

 字比謝矼は、沖縄本島西海岸を南北に走る幹線道路(現国道五十八号)の沿線に開かれた集落で、比謝川の水運の便と相俟って交通の要所となっていた。大正はじめに嘉手納に製糖工場が創設されるや那覇―嘉手納間に軽便鉄道が敷設されるようになり、それまで水路で運ばれていた農産物(砂糖)が汽車で輸送されるようになった。ところが家畜市場への仔牛類は従来のように水路が使われていて県下の家畜(牛)の集散地比謝矼の役目は変わりなく、汽帆船や山原船の出入りと共に中部の産業振興、発展に寄与してきた。牛市場・村産業組合・村営屠殺場をはじめ雑貨店・材木屋・飲食店・馬車屋・菓子屋・金物屋・時計屋・染物屋・自転車屋・理髪屋・鍛冶屋・畳屋・風呂屋・ブリキ屋・家具屋・装蹄屋・マーミナ(モヤシ)屋・醤油屋・医院など、暮らしの要となる多くの職種の店などが建ち並び、読谷山村の表玄関としての機能を果たしていた。
 昭和十九年の字の戸数は九八戸で人口は四○九名であった(『比謝矼誌』及びその調査資料から)。当時小学生が六四人、中等学校生男子二〇人、女子七人、大学及び専門学校生男子七人で、上級学校への進学は村一番であった。
 戦後、昭和二十二年頃までに村に帰ったのが五九戸であったが、旧敷地への復帰の困難さ等があり、多くの世帯が字行政から離れていった。今日四三世帯、人口一五七人が字行政に加わっている(一九九九年三月末現在)。

 戦争への道

 昭和十二年(一九三七)七月七日、日支両軍の衝突によって起こった「支那事変」が泥沼化するに従い、その影響は身近にも及ぶようになってきた。民間からの貴金属製品の「献納」で指輪・ジーファー(かんざし)・時計などが供出同然に買い取られていった。昭和十四年には消防団が警防団に変わって、平時の消火、防火活動から更に空襲に対する活動をも含む国防団体となった。婦人会も愛国婦人会等から国防婦人会となって、出征軍人の送迎から慰問袋や千人針づくり、そして他団体と協力して「銃後の守り」を固める活動をするようになっていった。
 昭和十六年、太平洋戦争が勃発する頃からは生活物資は極度に不足し、繊維類は衣料切符制、米は米穀通帳による配給制となった。県民等しく「欲しがりません、勝つまでは」の心意気で窮乏生活に耐えていった。昭和十八年頃になると日常の必需品も店頭から消えていき、冠婚葬祭時に限って村役場からの配給通知で米や酒の特配があり、中等学校生のいる家庭へは石油の特配があった。「自転車通学の農林生達が特配カードで買った一升瓶の石油を大事に持ち帰っていた」と当時産業組合の売店に勤めていた山城※※は語っている。
 昭和十八年になって学徒動員体制が確立されると、理工科系以外の学生の徴兵猶予が撤廃された。比謝矼では、大学から帰った比嘉※※が、結婚式を済ませた翌日入営のために出発し、十二月一日に入隊した。山田※※は十九年四月一日に入隊している。戦況は日増しに厳しくなり特に海上輸送は極めて険悪で予定通りの出港は出来なかった。そのため、期限に間に合わないで遅れて入隊したのもいた。

 日本軍の駐屯

 昭和十九年七月、ウフグシク(山グヮー)で二か年にわたり続けられていた就学前幼児の託児所(保母松田※※、伊波※※)が閉鎖されて、間もなく山グヮーから屠豚場(トトゥンバ)にかけて天幕が張られて、球部隊が駐屯するようになった。保母の二人もその経理部に軍属として務めるようになった。字内の民家も宿舎やその他で使われるようになった。宮城商店(宮城※※)の二階に原口大尉、畳屋(山城※※)の二階は将校と下士官、当番兵が宿舎としていた。佐久川古着店(佐久川※※)に経理部、木屋(キーヤー)(比嘉※※)の資材倉庫は兵舎となって四〇人くらいが駐留し、裏の広場は炊事場になっていた。風呂屋の渡久山(渡久山※※)に指揮所が置かれた。煙草屋渡久山(渡久山※※)の一番座は下士官二、三人が宿舎にしていたが、夕方の床とりの報告では、当番兵が「蚊帳の垂れ一〇センチ」と声をはりあげていた。字事務所に一〇人くらい、イリモー(比嘉※※)に一二人、洪次郎屋(金城※※)の仕事場から一番座に一〇人余、新崎菓子店(新崎※※)には店と一番座に一〇人くらいがいた。伝道(ディンドー)(伊波※※)には砂川大尉と下士官、その他の兵が宿舎にしていて、隣の牛乳屋に寄っては芋を食べたり牛乳を飲んだりしていた。比嘉(ヒジャ)(比嘉※※)の二階は高射砲隊の隊長が宿舎にしていたが、彼は酒豪で度々一升瓶を下げてきては警防団長(比嘉※※)、副団長(比嘉※※)らと歓談していた。疎開で空き家になっていたクェーヌヰー佐渡山は、軍の物品倉庫になり、隣の鍛冶屋(糸洲※※)では字事務所やイリモーで寝泊まりしていた技術兵が工具の修理や製作等をしていた。球部隊は設営担当で主として牧原方面での陣地構築・仮小屋造りなどを任務としていた。昭和十八年頃から、※※(松田※※)の二階建ての旅館には特設警備第二四四中隊の本部がおかれていた。主に県内からの召集兵で編成され、中(嘉手納)飛行場近くに二個小隊、石川に一個小隊を配置していた。中隊本部には高江州中尉、金城少尉、呉屋准尉、それに小使が常駐していた。高江州中尉は※※(町田※※)を宿舎にしていた。昭和十八年、十九年と戦況の厳しさが続く中、字内では中等学校在学の者を除くと若者の姿が見えなくなり、老人と幼児をかかえる婦人だけで活気がなくなったが、守備軍の駐屯や飛行場建設が急ピッチで進められるようになるとにわかに騒然としてきた。朝夕の飯上げや作業隊の往来が激しく、靴音高く「歩調とれー、頭右」の号令が頻繁に聞こえるようになった。

 民の対空監視所

 昭和十二年、読谷山村内で初めて古堅国民学校区に消防団が結成され、嘉手納警察の指導を受けて消火・防火の住民活動体が誕生した。組頭比嘉※※、副組頭比嘉※※、第一小頭津覇※※(牧原)、第二小頭砂辺※※(大木)、各字には団員をおいて訓練活動が始まった。昭和十四年、読谷山村警防団に名称が変わり、本部は読谷山村役場におかれた。団長比嘉※※、副団長比嘉※※、第一・第二分団が古堅校区、第三分団読谷山校区、第四分団渡慶次校区と全村にまたがる組織になり、役場の担当者は上地※※であった。団長は非常勤であった。
 「昭和十三年十月に古堅校区で手押しポンプを購入する為の基金づくりの演芸会を催した。会場は比謝矼の山グヮー。各字からだしものを持ち寄って貰い、比謝矼の岳原※※・山内※※・勢理客※※・宮城※※・渡久山※※・比嘉※※・比嘉※※の各氏が中心となって、舞台造り飾りつけ幕引きと一生懸命であった。男手が戦地徴用などで郷里に少なくなってから村芝居にも女性が進出してきた。その手振りが印象的であった。地謡の※※の※※、畳屋の松田※※ジーさんの声が冴えて盛り上がった」(新崎盛秀『ふるさとの土』より)。ちなみにだしものは、比謝矼は「スパイ劇」で、比嘉※※が警察署長、比嘉※※はスパイ、宮城※※が刑事役に扮し演じた。楚辺は歌劇「愛しき夫婦」を比嘉※※と比嘉※※が演じた。舞踊は「仲里節」を比嘉※※などが踊った。
 基金で車付き手押しポンプを購入し、大湾入口に格納小屋を作って保管した。しかし、当時の事でポンプは購入できたが肝心な延長用の継ぎホースがなく、水は吸い上げてもあとはバケツリレーとなった。それでも村の出初め式には分団員が引っ張って行き、「新兵器」の操作で村民を驚かせた。
 「昭和十八年になると、逼迫する情勢に対し各字に監視所をおき、嘉手納警察署の管轄で警報はすべてそこを通して伝達された。各字から伝令が出されて状況を受領して伝えていた。警報は音響伝達でサイレンやドラ鐘も使用された。サイレンは警察署と古堅国民学校にあった。監視所には警報が発令された時だけ詰めるようにしていた。昭和二十年に入って空襲が激しくなると夜間の監視活動も続けられた。三月二十四日に比謝矼は初めての空襲被害をうけた。木屋(キーヤー)は直撃弾を受け、佐久川と村産業組合は炎上した。字に残っている警防団員や婦人会員らが必死に消火活動をしたが、僅かな人数ではどうにもならなかった。三月二十七日、空襲警報解除の間を見計らって、非戦闘員は国頭に避難していった」。(比嘉※※談)

 日本軍の駐屯と字民

 風呂屋(渡久山)
 連日の汗みどろの陣地構築で、兵隊たちに風呂は欠かせないものであった。数軒あった銭湯は相次いで廃業し、守備軍が駐屯する頃まで営業しているのは嘉手納を含めて渡久山(渡久山※※)の一軒しか残っていなかった。そこで駐屯する兵員すべての入浴は渡久山の風呂屋が一手に引き受けざるを得なかった。
 昼は男女の浴室すべてを軍に提供し、一般は軍が使用した後、夜間にしか使えない、というようになっていた。一般には迷惑をかけたかも知れないが、営業者にとっては満更でもなかった。ということは、軍隊の入浴形式は集団でやってきて決められた時間にさっさと出ていくというやりかたで、限られた時間に多人数を受け入れることができ、その上勘定は農林学校にあった経理部で一括払いしてくれたからである。さらに陣地構築の際に使った松材の余り物、つまり枝葉は無償で、しかも運び込んでくれたので燃料の面でも大助かりであった。(渡久山※※談)

 作り菓子屋(山田小・岳原小)
 軍から砂糖、メリケン粉等が運ばれて、軍へセンベイや焼きまんじゅう等を納めていたが、余分の材料で一般向けの営業の補いをした。(山田※※談)
 染屋(糸数・仲田) 航空兵たちが白い靴下を黒に染めて貰ったり、白いマフラーを紫に染めたりで、結構利用してくれた。(糸数某談)

 洋裁屋(新崎・当間)
 俗にミシン屋と言っていたが、そこにははやりの服の補修や戦闘帽の日除け用垂れ布を付けて貰うためにやって来る兵隊たちがあった。

 料亭(寿亭、通称ヌブイジョー)
 そういった時局にもかかわらず、民間人や軍の将校たちで料理や酒、それに三味線で賑わっていた。特に比嘉(ヒジャ)の二階を宿舎にしていた高射砲部隊の隊長はここの常連であった。
 民間地域に宿泊しているということもあって、下級の兵たちは上官に内緒で、芋をもらったり、逆に煙草をくれたり、その他いろいろの付き合いがあった。上級の者たちはまた、それぞれに字の有力者との係わりがあった。

 徴用

 昭和十九年七月に田島※※(大工)、比嘉※※(時計屋)親子、与儀※※、我那覇※※、親泊※※、喜納※※の七人が八重山に徴用された。そしてこの七人は十月十日の空襲に遭い、全員犠牲となった。間もなく我那覇※※、宮城※※が馬車屋の大工道具とともに徴用され、三か月間泡瀬で荷馬車の修理をした。

 疎開(学童疎開・一般疎開)

 昭和十九年四月、県の勧めで学童疎開が始まった。県下の国民学校にその募集があり、当字から宇久田校の学童引率で宮城※※、屋良校の学童疎開は宮城※※が引率した。
 古堅校の学童疎開引率で渡久山※※、同世話人に新垣※※が決まった。字からの学童は古堅校四六人中二九人で、過半数を占めていた。宮崎県西諸県郡加久藤村(現えびの市)にお世話になる事となった。国策とはいえ、初等科三年生から高等科二年生のあどけない我が子との別れは、ひしひしと押し寄せる戦況の中にあっては涙を飲んでの辛い思いも耐え忍ばなければならなかった。
 昭和十九年五月二十六日、神山※※親子三人は嘉義丸で帰郷途中、奄美大島付近で米潜水艦の攻撃に遭い船は沈没して、全員死亡した。
 昭和十九年八月二十一日、佐渡山※※一家、仲程※※、比嘉※※親子、佐渡山※※と祖母の宇茂佐※※は本土へ疎開する為に対馬丸で沖縄を離れたのであるが、二十二日、悪石島付近で敵潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて船は沈没し、佐渡山※※は救助されたが、他は全員死亡した。
 佐渡山※※によると「敵潜の攻撃を受けて沈没する寸前、先に家族を次々に海に飛びこませ最後に船が傾きかけてから自分も飛び込んだ。家族みんなは助ける事はできないが、せめて一人だけでも助けようと思って真っ暗い海の中でしがみついてきた子供を引き寄せて泳いだ。夜が明けてみると全然知らない子であった。その子は読谷村波平の子であったので、先に疎開させてあった宮崎県の三人の子のところへ連れていった」という。
 昭和十九年九月に輝金丸で出発した赤比地※※親子三人は無事に宮崎県に疎開することができた。また、翁長※※親子三人も熊本県へ無事疎開した。

 十・十空襲

 「朝食の準備をしていた八時前であった。北飛行場の方から普段は見慣れない飛行機が二機三機と南の方に飛んでいた。遠い北の方ではドーンドーンと大きな爆発音が聞こえる。その内パッパッと不気味な機銃音と閃光が見える。みんな『実戦のようだ』といって高い所に上がって見ていた。と、誰かが『実戦だ、敵だ。早くかくれよ』と大声で知らせてきたので、大慌てで壕に避難した。後から入ってきた主人が『かまどの火を消してきたよ』と言ったのでホッとした。その日は一日中空襲があったが、幸い比謝矼は被害がなくてよかった」。(宮城※※談)
 「空襲のあった翌日から、大通りは騒然としてきた。空襲で焼き出された人々の波が国頭に向かって続々と続いた。字の婦人たちはなけなしの食物をふるまったり、夜に入ると宿泊を世話したり力を貸してあげた。空襲のあった翌日か翌々日、大変な数の飛行機が飛来してきた。今度は日本軍の飛行機で、アメリカ機動部隊を追撃、捕捉殲滅(せんめつ)せんとする、いわゆる友軍機で、その姿には大変感激した。間もなく旅立ったこの友軍機は、十二日から十四日の台湾沖航空戦に出撃、ほとんどが帰らなかった。
 そんな日が続いて間もなく、球部隊は牧原方面に移動していき、佐久川にあった経理部も栄橋近くに移った。嘉手納の農林学校内にあった縫工部も牧原に移っていった。木屋の炊事班は後の整理のためか下士官と兵が若干残っていたが、幾日もしないで山部隊の兵隊が入ってきて作業を続行していた。ある日そこの鍛冶屋で打った日本刀を一振プレゼントされたことがあった」。(比嘉※※談)

 軍の炊事場で働く

 「昭和十九年八月球部隊が駐屯するようになって木屋の裏庭に炊事班ができ、比謝矼に駐留する部隊の炊事を担当した。我那覇※※、上地※※に私の三人ははじめ雑役として働くようになった。朝夕の食事準備は忙しかった。時間になると飯上げの当番兵がきて、それぞれの容器に入れたのを担いで運んでいた。ある日、糸洲の鍛冶屋で作った包丁を貰ったことがある。嬉しかった。十・十空襲後幾日もしないで栄橋近くに移動するようになって、私たち三人も一緒に行った。食糧事情はかなり悪くなっており、年配の召集兵が多かったが空腹を訴えていたのが忘れられない。十二月になって三人は湾ウガンにある航空地区司令部に移った。そこは丸太小屋(三角兵舎)が建てられて技術将校、通信関係者、運転の兵隊がおり、食料はかなり豊富であった。
 昭和二十年になって二月の末のこと、私の家族が国頭に避難することを聞いて、広島出身の小坂さんが国頭村まで車を出して送ってくれた。三月二十四日は海上からの艦砲射撃や空襲が激しくなり、軍からの指示で三人は国頭に避難するように言われた。三人は食糧として乾パン、米、カルピスなどを与えられ、国頭に薪炭(しんたん)を運びに行く車に乗せられ、母たちの避難地の国頭村比地まで送ってもらい大変助かった」。(古堅※※談、旧姓※※)

 秘密裏の入隊

 「かつては幟を立て鳴り物入りで歓呼の声に送られた出征兵士であったが、昭和十九年十月頃になると、人に知られぬようにこっそりと出ていったのである。夜陰に乗じて役場の兵事係が引率して現地入隊していった。仲程※※もその一人である。上地※※は十月十三日、比謝川べりの避難壕から朝早く一人で座喜味のサンリン毛に向かったし、同日渡久山※※は単身歩いて宜野湾村大山にある石部隊に入隊した。十五歳になったばかりの玉那覇※※は海軍に志願した。昭和二十年五月下旬津嘉山で私は鉄かぶとに軍服姿で一人悄然(しょうぜん)と南下している※※に出合い、『カナちゃん(※※の童名)!』と声をかけると彼は『※※姉さん』と言ったきり声を詰まらせた。去っていく後ろ姿に『気を付けて』と戦火の中で祈ったが、あれが今生の別れとなった。(新崎※※談、旧姓※※)

 国頭村比地が比謝矼の避難地

 県や村からの北部疎開計画に従って、比謝矼区長比嘉※※が引率し、国頭村に出発したのは昭和二十年二月八日で、その第一陣は新崎※※他一人、比嘉※※他五人等のわずかの世帯であった。比謝矼の避難地は比地であった。比地の集落では山側に丸太小屋を建てて、疎開してくる人々を待っていた。また先発の疎開者たちのために民家の空き室を割り当てる等、親しく歓迎してくれた。縁故疎開として前門(メージョー)(宮城)、當間、山田等は半地やその他に世話になった。疎開には軍要員の確保ということから年齢制限があり、最初の頃はほとんど老幼婦女子だけであった。当初、大方の字民は見知らぬ地での生活不安、食糧不安、残していく財産の心配などと、見通しのきかない状況の中で疎開を渋りがちであった。三月に入って次第に疎開者も増えていくが、ほとんどが各家庭の考えで進められた。そして最後に疎開に踏み切らせたのは激しい空爆と艦砲射撃であった。三月二十四日の敵機の来襲と艦船の動きは大きな衝撃を与えた。
 疎開の状況は、当座の生活必需品を持てるだけ持ち、担げるだけ担ぎ、女性は頭に載せその上乳児を背にし、幼児の手を引いて歩いた。照明弾に照らされ、砲弾に怯えながら、三日も四日もかかっての行程であった。途中、名護や羽地には休憩所が設けられ、地元の人々のおにぎりの炊き出し、湯茶の接待等々、身にしみる奉仕は忘れられない。疲れてたどり着いてきた人々を比地の人々は快く迎え、その上心温まる歓迎会まで催してくださり感謝でいっぱいであった。わずかに警防団の監視を残して全世帯が避難したが、三月二十七日に比嘉※※が比謝矼を離れたのが最後であった。
 四月一日、昨日からの空襲に続いて未明からは何かしら不気味な様子が感じられ、午前八時頃、ついに米軍は比謝川河口を中心に一二キロにわたる海岸から上陸し、ほとんど無抵抗のまま進撃、午前十時には比謝矼に到着している。
 「比地の疎開地ではほとんどの字民が山入りし、米軍の進撃とともに奥へ奥へと避難を続けていった。高齢で平素から体の弱い母と一緒にいた渡久山※※は、山の中の生活に母は耐えられないと見て集落に留まっていたところ、最初に進撃してきた米軍に捕らえられ、その日の内に羽地村仲尾次の難民収容所に送られた」(父※※の口述 渡久山※※記)。
 山の中に逃げ込んだ人々は筆舌に尽くしがたい苦難の連続であった。食糧が乏しくなり、強奪にあって飢餓にさらされたり、あるいは避難所を追い出されて全く身を隠す場所さえなく、灌木の陰に家族が寄り添って夜を待つということも少なくなかった。食を求め歩いて銃弾の犠牲になったり、「敵に知られる」ということで泣きわめく我が子を殺すという事態まで起こり、全く修羅場そのもので言語に絶するものがあった。
 そして終戦。それぞれが収容された所は田井等、漢那、中川、石川等の各収容所であった。

 比謝矼に残った人たち

比謝矼に設けられた米海軍設営隊キャンプ(1945年4月8日)
 新崎※※(旧姓※※)が実母渡久山※※の口述を記録したものから、比謝矼に残った人々の様子を見ると、
 「昭和十九年十月十日、朝食をすました頃、爆音を聞いて『今日の演習はいつもより激しいな』と思って外に出てみると、屋根に登って見ている人もいた。しかし警防団の人たちが大きな声で『敵だ、敵だぞ』と大声で走って来たのを見て、驚いて母※※は実母の高嶺※※を連れ、家の後方真栄田城址の裏にある避難壕へと急いだ。その日は比謝矼は被害はなかったが、昭和二十年になると、空襲は次第にひどくなり、鍋、釜、柳行李などを壕に運んで泊まる日も続いた。壕の近くは比謝矼中組の人たちの壕が並んでいた。
 三月に入って空襲がひどくなると『敵が沖縄に向かっている。読谷は危ない』という情報が入った。三月下旬、中組の人たちは持てるだけの荷物を持ち、それぞれの家族は国頭の方へと移って行った。安谷屋※※先生が『こちらは危ない。皆国頭へ行きますよ。一緒に早く行きましょう』と誘いにいらっしゃったので、母は皆さんと行動を共にしようと祖母に話したが、頑として聞き入れないで『今はこちら、今はあちらと心を動揺させるものではない。人間いざという時はヰシジュドゥデーイチヤル(自分が居て、落ちついている所が一番)』と言った。普段から朝夕一時間位お祈りをするのが日課で、それは忙しい時でも来客がある時でも決して早く終わってしまう事のない信心深い祖母だった。父は米国で音信不通、三人の子供も別々で、年老いた母と二人、無人と化した場所で恐ろしい思いでひそんでいた。
 四月一日午前十時頃、突然銃を持った米兵が二人壕入口に立った。生まれて初めて見る米兵、また米兵にとっても初めて見る沖縄人だったかも知れない。祖母は無心にお祈りをしていた。母は祖母にくっついて震えていた。

 米兵は銃を肩にかけ二人を抱きかかえて外に出、壕下の古堅井(フルギンガー)の方に連れていった。そこにはテントが張られ、米兵がいるようだった。うつむいていたのではっきり分からなかったが、ガヤガヤ何やら声が聞こえたのである。敵に捕まえられ殺されるものと思っていたので、銃で撃たれるのかと思っていたらトラックに乗せられた。比謝川に投げ込まれるのかと不安と恐ろしさでブルブル震えていた。ところがトラックはどんどん進み、やがて止まった。車上から見るとそこは楚辺の浜だった。そこには楚辺周辺から集められたらしい人たちがいたので、いっしょに集めて殺すんだ、と思った。そばでいろんな板箱を壊して燃やしていたので火の中にほうり込まれるのかと、ずっと死ぬことばかり考えていた。
 何時間過ぎたか分からないが、今度は大きなお握りが一個ずつ配られた。毒を入れて殺すのだと思っていたら、子供や大人までハウハウ食べ始めたので唖然として見ていた。
 次第に心も落ち着いてきた。日の丸のはっきり見える飛行機が飛んできた。米兵たちは一目散に逃げていたが、沖縄の人たちは手を振り声援を送って喜んでいた。また米兵と一緒に逃げ隠れする人たちもいて異様な状況であった。その後石川収容所に移された」
という。

 繰り上げ卒業と入隊・学徒動員

大正十五年生まれの青年学徒
農林学校 比嘉※※、糸洲※※、上地※※
県立第二中学校 町田※※
師範学校 新崎※※
専門学校 山城※※

学徒動員(鉄血勤皇隊)
県立第一中学校 喜瀬※※、山田※※、佐久川※※、渡久山※※
県立第二中学校 町田※※、渡久山※※
県立工業学校 山内※※
県立農林学校 當間※※、松田※※、新垣※※
師範学校男子部 岳原※※、宮城※※、渡久山※※

篤志看護婦(ひめゆり学徒隊)
県立第一高等女学校 渡久山※※(※※)

防衛召集
昭和十八年 比嘉※※
昭和十九年 新崎※※、赤比地※※、神山※※、新里※※、比嘉※※、渡嘉敷※※、喜納※※、比嘉※※、津波古※※
昭和二十年 平安名※※、宮城※※

軍属 岳原※※、松田※※、松田※※、岳原※※(現※※)、松田※※、伊波※※、新崎※※、当間※※(現※※)、比嘉※※(現※※)、我那覇※※

県外在の軍人・軍属(昭和十九年三月現在)
与座盛※※(大阪)、宮城※※(西部一六部隊)、新垣※※(島根航空隊)、与座※※(ブーゲンビル島)、我那覇※※(ブーゲンビル島)、宮城※※(中支)、神山※※(南方方面)、喜瀬※※(中支)、喜瀬※※(中支)、西平※※(中支)、新垣※※(満州)、渡久山※※(スンバ島)、糸洲※※(中支宜昌県)、山城※※(ブーゲンビル島)、山城※※(フィリピン)、新崎 ※※(フィリピン)、比嘉※※(タイ)、山田※※(国東警備隊)、當間※※(中支)、赤比地※※(タイ)、赤比地※※(中支)、赤比地※※(海軍航空隊)、赤比地※※(航空隊)、上地※※(本土)、上地※※(ベトナム)、諸見里※※(ソロモン群島)、比嘉※※(南京、軍属)、新垣※※(フィリピン)、平安名※※(佐世保海兵団)、糸数※※(佐世保、軍属)

戦争による犠牲者 男六六名、女四一名 計一〇七名

 帰村状況

 各地の収容所に収容された字民は昭和二十一年(一九四六)十一月待ちに待っていたわが村への第一歩を踏み入れることができた。波平地域への帰住であった。六畳二間の茅葺きテント壁の破風造りで中仕切を入れ、二世帯で一棟の割当であった。二次三次と本島各地の収容先から移動が続いた。翌二十二年大木・楚辺地域への移住が許されるようになって、字民は大木地域に落ち着くようになった。当時男手のある家庭では渡具知にある軍ディスポーザルヤード(処分場)等から空きドラム缶を運び込み、切り開いて家の壁や屋根に使った。また大湾の村内(未開放地)に野積みにされていた燃料補助タンク(円錐状)を運んできて水入れにしたり、二つに割って木の枠を取りつけて舟にした。やがて読谷南部の各字は大方旧敷地に移動したが、比謝矼をはじめ牧原・長田は軍施設等の関係で移動が許されなかった。比謝矼では再三にわたって国道東側の開放を陳情してきたが、叶えられず字民は僅かに残った旧地番や大木、比謝等の地に敷地を求めて住居を建築し、生活基盤をかためるようになった。
 昔は読谷山村の表玄関の部落であったが、比謝川も堰止められてかつての清流も見られなくなった。
(宮城傳三郎)

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