読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

 19 大木

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 概況

 字大木ができたのは昭和十年のことである。楚辺屋取・伊良皆屋取・比謝屋取の三つが合併し、六一世帯で構成した。元々が屋取集落であることから家々は分散しており、まとまった集落が形成されていたわけではない。現在の村道大木線を幹線にして、それと各家とを小さな馬車道が結んでおり、その周辺を畑が囲んでいた。ムラヤー(字事務所)は現在の公民館の近くにあった。北側斜面の雑木林を背に南西の方に農地が広がっていた。畑や家の周辺には大きなガジマルやフクギなどがあり、所々に木陰をつくった。石垣囲いがあったのは、屋号仲本(ナカムトゥ)、長浜屋(ナガハマヤー)、東比嘉小(アガリヒジャグヮー)であった。畑では主にサトウキビや芋を作付けし、他に大麦、大豆、エンドウ豆などが植えられた。
 農地や宅地はほとんどが自前のものであったが、農作物の収穫だけでは生活が苦しく、本土への出稼ぎや海外への移民も多く、ハワイに移住した世帯もあった。そうしたことから、沖縄戦前には、出稼ぎ地から直接召集されたり、あるいは一時帰省して応召する者もいた。
 本土出稼ぎ者は昭和十七年、十八年に多く、主に川崎の化学調味料工場に先に行っていた親戚などの「呼び寄せ」で行った人々であった。
 沖縄戦前の世帯数は新屋砂辺小(ミーヤーシナビグヮー)の砂辺※※の記録から六九世帯であるが、ほとんどの世帯から出稼ぎなどで青年層が居らず極めて静かな農村であった。

 出征兵士の見送り

 昭和十七年から二十年まで区長を務めた新垣※※(明治三十五年生)の下で昭和十八年から十九年まで佐事をしていた砂辺※※(昭和二年生)によると、昭和十七年まではムラヤー(字事務所)で出征兵士の壮行会を催していた。酒はないのでお茶とあり合わせの料理を少し出しただけの質素なものであったと言う。その年、ムラヤーはセメント瓦葺きで新築された。その頃出征した砂辺※※(大正九年生)は、南洋ロタ島に出稼ぎに行っていたが、昭和十七年に帰省し応召したと言う。
 昭和十六年三月頃、我喜屋※※と我喜屋※※、喜瀬※※の三人が出征した。出征当日は、早朝、徳武佐(トゥクブサー)に出向き敬礼と万歳を唱え武運長久を祈り、その後のぼり一本を押し立てて嘉手納駅まで見送った。その前の晩、新垣区長は自宅で山羊を潰し、出征者を招待して、字の有志の方々を交えた激励会を催した。三人とも配属された部隊は別々であった。
 喜瀬※※によると「那覇から船で三日間かけて鹿児島に着いて入隊した。部隊名は覚えていないが、一時体調を崩して帰省した。その後再び徴兵検査を受けてフィリピンへ向かうことになったが、一つ前にフィリピンに向かった船が敵の攻撃で沈没したので、台湾へ避難した。その後終戦まで台湾に駐屯した」と言う。
 大木からの最後の現役出征者ではなかったかという砂辺※※(大正十四年生)は、「昭和十九年十一月に出征したが、その頃にはもう見送りなどもなく、午前十時に家を出て、大謝名の球部隊の事務所で現地入隊の手続きをとると、すぐに浦添に配備されていた『球三六六六部隊』独立臼砲第一聯隊第四中隊(勝又※※中隊長)に配属された」と言う。

 日本軍の駐屯

 大木集落への日本軍の駐屯は、昭和十九年七月頃からで、後に古堅国民学校に本部を置く独立混成第十五連隊速射砲中隊の一部が屋号・新垣小(アラカチグヮー)にやって来たのが始まりであった。山田中尉が率いるその部隊を「山田隊」と呼んでいた。家の前庭にもテントを張って、二五、六人がいた。さらに、近くの畑には速射砲を運ぶトラックが四、五台置かれていた。彼らは食料も十分に持っており、当時としては贅沢であった。
 昭和十九年八月末頃からは、北飛行場警備のための球一二四二五・野戦高射砲第八十一大隊の第一中隊が駐屯した。この大隊は他に、第二中隊が楚辺、第三中隊が伊良皆に置かれ、本部は伊良皆にあった。以下に集落内における兵員の配置状況をみてみよう。
 字事務所隣の仲本(ナカムトゥ)に将校七、八人が入り、その他の兵隊は金城小(カナグスクグヮー)、新屋砂辺小(ミーヤーシナビグヮー)、平田(二〇人ぐらい居た。豆腐や芋などを提供した)、神谷、蒲比嘉小(カマーヒージャグヮー)、亀我喜屋(カミーガージャ)、大砂辺、喜名小(チナーグヮー)、三良砂辺(サンラーシナビ)などに駐屯した。炊事場は武太比嘉小(ントゥーヒージャグヮー)と大長浜小(ウフナガハマグヮー)に置かれ、蒲長浜小(カマーナガハマグヮー)は医務室になり、屋号山田は病室として使用され衛生兵一人と患者数名がいた。医務室になった蒲長浜小の家族は恩納村山田のカーブヤーガマに疎開したが、その時に薬などを貰って行った。
 大木内にいる高射砲部隊の食事は、武太比嘉小で作られた。大長浜小で作ったものは伊良皆に駐屯する部隊用だった。量が少なかったので、若い兵士は食べ物を求めて各家庭を回ることがしばしばあった。でも、上官に見つかるとひどく殴られていた。ある日、いつものように炊事場から食料を運ぶ途中で一人の二等兵が畑のあぜ道で滑り、こぼしてしまったことがあった。その二等兵は二日間の食事抜きになったが、砂辺※※らで芋を分け与えたという。また、喜名※※によると「うちのおばあさんが餅を作っているところに兵隊がやってくると惜しみなくあげていた。自分の息子も兵隊に行っているんだからと、同じようにひもじい思いをしているだろうという思いからだった」と言う。
 また「役場からの供出割当もあまりなく、芋を集めて馬車で二回役場に運んだことぐらいしか記憶はない」と砂辺※※は言っている。このようにして、住民と兵士とのトラブルはほとんどなく、日本軍の駐屯は割にスムーズにいっていた。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日の大空襲は大きな衝撃を与えた大事件であった。比嘉※※(昭和六年生)は「空襲という概念がないんです。学校でも日本は絶対負けないと教わったし。だから訓練だとしか思わない。本物の空襲だなんて、まったく頭にありませんでした」と言う。以下に数人の体験談を通して、大木での十・十空襲を綴ることにする。

 砂辺※※(※※・昭和二年生)

 朝から豊見城の防空壕へ木材を運ぶために馬車の準備をしていた。家の離れにいた高射砲部隊の五、六人の兵隊もまだ飛行場の下の高射砲陣地に出かける前で、演習だと思っていた。本物の空襲だとすぐに気付いたのは古参上等兵ただ一人で、一緒にいた新米の伍長は日本軍の飛行機が落ちてしまったんだと慌てて素足で走って行ってしまったほどだった。
 私は家族を家から五〇メートルほど離れた所に造ってあった防空壕に避難させ、馬は荷馬車の車体から外して木陰に移した。その後、人々に避難するように呼びかけ集落内を走り回った。集落の北側は北飛行場に向かって傾斜を登っていくようになっているが、家はなく雑木が茂っていた。そこを高射砲部隊の兵隊が走っていくものだから、米軍の戦闘機から見えたのか焼夷弾が投下されて燃え上がった。事務所隣の仲本には将校達が居たが、慌てて出て行って軍刀もほったらかされてあった。それをそこに間借りしていた砂辺※※さんという人が拾って、防空壕に持って避難していた。しばらく攻撃の様子を見ていると、北飛行場や中飛行場が攻撃の的で、自分達の所に爆弾が落とされることはないなと高をくくって、男達の多くは近くの木に登ったり、木陰で攻撃の様子を一日中眺めていた。私も木の上から嘉手納の製糖工場が爆撃される様子などを見ていた。
 結局、流れ弾みたいに目標をはずれて落ちてきたのか、亀比嘉小の山羊小屋が焼夷弾で燃えたり、原国(ハラグン)の家のそばや畑のあぜ道に何発か落ちただけで、人身への被害はなかった。
 今にして思えば、新米の将校だったのか、あの慌て様を見ていると戦闘経験もない、そうした兵隊達だったんだと思う。

 喜名※※(※※・大正九年生)

 その日の朝、どこかが豚を潰してあるよということを聞いて、それを買いに五か月の子供を抱いて今の公民館の辺りまで来ていた。パラパラと攻撃の音は聞こえるし、太陽を背にして飛んで来る敵機にびっくりして突っ立っていたら、「うりひゃー、空襲やんどー」とブーター我喜屋小の※※お父さんが近くの壕から出てきて、抱いている赤ちゃんを引き取って、一緒に壕の中に避難させてくれた。そこは我喜屋の壕ではなく、何か共同の壕が掘られていたように思う。(共同の壕は、イーヌカーの下にあって、大きな岩の下に洞窟があったのでそこを避難壕の一つにしていた。砂辺※※談)

 長浜※※(※※・大正八年生)

 十・十空襲の朝は私は家で豆腐を作っていた。おばあちゃんは芋を炊いていた。パラパラと音がしたので、見に行ったら、高射砲部隊の兵隊が「空襲だから、壕の中に入りなさい」と言われた。屋敷内には穴を掘って上から木や草をかぶせた程度の避難壕を造ってあったので、そこに子ども達も一緒に隠れた。でも、すぐにこんな粗末な壕では命は助からないと思って、ウフヤー(大長浜小(ウフナガハマグヮー))の壕に避難した。ウフヤーには日本軍の炊事場があり、そこにいた兵隊さんが比謝に友軍が造った大きめの壕があるので、そこに避難しなさいということで、その日の夕方にはそこに移った。

 学徒隊

 比嘉※※(昭和二年生)は、首里の「一中」から予科練を経て昭和十九年四月一日に鹿児島海軍航空隊に入隊している。
 山入※※(昭和四年生)は沖縄県立工業学校から学徒隊(通信隊)として首里、島尻方面にかり出され、昭和二十年六月十九日、摩文仁村方面で戦死した。
 長浜※※(昭和五年生)は高等科一年生の時に自ら志願して、名護のアガリバルにあった「農兵隊」に入隊した。名護から普天間に移動途中、米軍の上陸により具志川村栄野比にて解散、そのまま家族が避難していた山田のカーブヤーガマに行き、家族と合流した。「何かあればカーブヤーガマに来るように言われていた」という。

 本土疎開

 本土疎開を戦災実態調査票から調べてみると、両親がフィリピンに出稼ぎに出かけていた※※では、そこで生まれた長男※※(昭和九年生)と二女※※(昭和十年生)がフィリピンから大分に疎開し、その後鹿児島で栄養失調のため二人とも死亡したことが記されている。
 また、※※では、新垣※※、※※兄妹が宮崎へ疎開途中、海上で船が沈没し死亡という記述が見えるが詳細は不明である。

 それぞれの避難

 本当にこの島が戦場になるかも知れない、十・十空襲で人々の意識は変わり始めた。十一月に入って三良砂辺小と蒲長浜小の家族は、親戚を頼って恩納村山田に避難した。そこにはカーブヤーガマという大きなガマがあって、空襲時の安全を確保するには好都合であるというのがその理由であったが、実際はガマではなく親戚の家で生活し、空襲の時だけカーブヤーガマに避難した。そして、米軍上陸直後に山田で捕らえられ、後に石川の収容所に送られた。
 大木の人々が本格的にやんばるに避難するのは、三月二十三日頃からである。喜名※※は区長さんから「山原に行きなさい」と命令されて、その晩家族四人(おじい、おばあと親子)で辺土名を目指した。「日本軍のトラックに一度だけ乗せてもらったが、三日かかった。辺土名からはまた比地に移動して配給をもらって山の中に入った」と言う。残っていたその他の世帯もほとんど二十三日から二十八、九日頃には大木から出た。
 米軍上陸直前まで大木にいた比嘉※※によると、「おそらく大木にいたのはうちの家族と隣の叔母の家族だけだったと思う。集落内を見て回ったが誰もいなかった。うちは父が昭和十九年の二月に亡くなっていたので、山原に行っても生活が出来ないだろうと残っていた。上陸前の空襲や爆撃がもの凄いので、長田の日本軍が掘った壕に叔父の家族ら総勢一六人と一緒に避難した。米兵に見つかり、銃撃で亡くなったり、あるいは重傷で動けない者を置いて、うちの家族四人と、いとこに叔母の六人で山原に向かうことになった。読谷岳から伊波に抜けて石川で一泊し、金武を通り、久志で一泊、源河を通って奥間の山中の避難小屋に入った。大木の人たちは比地に多かったように思う」と言う。
 この時、長田の避難壕が攻撃された様子を比嘉※※の証言に基づき要約すると次のようになる。
 ※※は叔父に「山に登ってアメリカ軍の状況を見てこい」と言われて、外に出た。小高いところに登ったところで、運悪く米軍の落下傘部隊に見つかった。壕めがけて走ったが後をつけられ、壕の所在を知られてしまった。入口には布団を掛けて爆風返しにしていたがそれが目印になったのかも知れない。※※は頭だけ出して川の中に潜んでいた。米兵四、五人が自動小銃で布団めがけて発射した。入口にいた人々が犠牲になった。その銃撃で即死したのは、※※の母子三人と※※の妹の四人であった。銃弾を受けてケガをした※※の叔父や姉、それに祖母らを残して壕を後にした。途中、母親や兄弟と出会い、前述のように山原への逃避行になった。足のケガだけだった姉は運良く生き残り、現在も健在である。
 戦災実態調査票からみると避難先として一番多かったのは恩納村山田で前述の他に、スター照屋小、加那我喜屋、ブーター我喜屋、亀我喜屋、我喜屋、蒲比嘉小、東比嘉小、仲比嘉小、チミヤー長浜小、長浜屋等であった。次に多いのが国頭村辺土名、奥間、比地辺りで、前上原、前山内、仲栄真、三良糸村、糸村、源河小、原国、新屋砂辺小、平田、スター砂辺小、亀比嘉小、喜名小、仲尾次、山入端等であった。その他の地域では、渡嘉敷小が石川に、松吾砂辺小と新垣小が久志に、米須が宜野湾村長田に、宮城が久志村二見などとなっている。神谷は昭和二十年一月に金武村伊芸に避難したが、米軍上陸間近と考え、どうせ死ぬなら古里でと、読谷に戻ってきて米軍に捕らえられた。

 投降、そして収容所へ

 大木の人々の投降場所はほとんどが避難先近くであり、恩納村山田や辺土名周辺、金武、石川、二見などとなっている。大木の人々は、時期の前後はあるものの、その多くが石川収容所に集まっていた。「『読谷村民各地区分散居住状況調』(一九四六年九月)資料仲本政公氏提供」(『村の歩み』一九五七年、読谷村役所発行)によれば、大木の人々の分散居住状況は、石川二二〇人、コザ一〇人、前原四人、漢那四人、宜野座五人、久志一二人の合計二五五人となっている。

 帰村と慰霊の塔

 大木・楚辺地域が移住許可になるのは一九四七年に入ってからである。当時の動きをみると、一月十五日に民政府総務部稲嶺事務官外三名が楚辺大木方面の村民移住並びに農耕許可地実地調査に来所し、その後村では一月二十八日から楚辺大木方面の建設に着手した。そして、五月一日から移動を開始している。大木の場合、現在の公民館一帯の地域に茅葺きやカバヤーを造り、住民の受入を開始したが、一足早く波平地域に帰村していた人や直接各地の収容所から大木に帰る人など、牧原、長田、大湾、比謝矼、古堅などの人々が住み着いた。一時は三〇〇から四〇〇世帯、約三〇〇〇人が雑居生活をしたが、その後次第に各地に移住許可がおりて移り住み、現在に至っている。
 慰霊の塔は、昭和五十六年に建立したもので、高台の徳武佐の聖地内に世界の恒久平和を願うものとして、集落と人々を見守っている。
(小橋川清弘)

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